教訓

Kさんが亡くなった時に古いアルバムを整理したのは、Kさんとのツーショットの写真があったのを思い出したからだ。その写真を写してメールでTやSさんに送りたかった。アルバムの中にはずいぶんと若いボクがいて、そしてもう亡くなった人も何人かいて、彼/彼女たちもずいぶんと若くて、あの頃のままそこにたたずんでいた。シャッターを押したときの指先の感覚がまだ残っていて、ボクはボクの指先を別の生き物のように眺めていた。そしてその写真が立体的に感じられた。細胞単位で過去はボクたちの肉体に留まっている。ボクは指先をなめてみた。触覚のほうが勝っていて舌先のぬるりとした感覚がまた記憶となってボクの指先に残った。

その時に一枚のチケットの半券を見つけた。昭和61年、1986年だから、29年前のものだ。加川良さんが、その頃ボクが住んでいた街にやってきて、確かGさんと一緒に行った時のものだ。30年前、まだボクは子供で、まだポケットには夢や希望なんてものが詰まっていた。その根拠なきポケットの中身は時としてボクを夢想家にした。旅人にもした。何かに夢中になるかわりに飽きっぽくもさせた。

本を読んだり人に出会うことにも積極的になっていた時期だった。要するに好奇心旺盛な若者だった。そういった癖は20代半ばまで続いた。その好奇心旺盛な頃に出逢ったのはずいぶんと年上の人たちだった。加川良さんを教えてもらったGさんだって8歳年上だったし、自殺した玉ちゃんは10歳上、まこ兄もそれぐらい上の人だったし、パチプロのOさんも、理容師のPさんも、ボクの周りにはほとんど年上の人ばかりだった。唯一年下と言えば事故で死んだMというヤツぐらいで、そいつだってなんだかくたびれた若者で、ボクより一学年下だったけれど、話すことはずいぶんと大人びていた。

付き合った女性も年上の人ばかりで、中には20歳ほど離れた人もいた。こうして書いてみるとなんだか病的だなあ、なんて思ったりもするのだけれど、あの頃は年上の人たちといるほうがなんだか気持ちが落ち着いたし、その気持ちが満たされているように思っていた。ボクの知らないこと、ボクの知りたいことを知っていたし、それまで見たこともないような人たちだったので、不思議な気持ちでその人たちを見る、そう、見るだけで楽しかった。

歌や詩、本に漫画、酒にギャンブル、煙草にドラッグ、人生のうちで一度は知らなければならないことの全てをボクは彼らに教えてもらった。河口慧海 の「チベット旅行記」、 堀田善衞の「インドで考えたこと」、山尾三省、バグワン シュリ ラジニーシなんて人たちを知ったのもその人たちからで、そうした流れの中でボクはインドやネパールを放浪しようと思い旅に出たのだ。

それらの出会いが正解だったとか間違いだったとか、あるいはボクの人生にどう影響を与えたとかなんてことは、今は考えていない。それはそうなるように運命づけられていたのだろうし。ボクがこうして生きているということは、善い運命だったのだろうと、思うのだ。

川崎中1殺人事件のことを考えている。13歳の被害者の子もボクと同じように年上の人たちに興味を持ち、そして憬れたりもしたのだろうと思う。そうして自分の居場所を見つけたと感じたのだろう。ボクたちの何割かはボクや彼と同じような人間関係の中に居ることに安心する。人口、子どもの数が少ない地方の街では、年齢という枠は取除かれて社会や地域、共同体が存在する。

消防団とか青年団なんてものはその例だ。5歳差が一緒に遊ぶなんてことは普通のことなのだ。

その地方の共同体の集団は色々なつながりの中にある。子供たちの集団は、その上には親たちの集団があってそれが集まって村や町という共同体が存在する。しかし都会の集団は密室の集団になる場合が多い。その集団だけが孤立して存在してしまうので、陰湿なイジメや暴力が入り込む。そして歯止めがきかなくなるのだろう。

あの頃のボクを思い出してしまう。ただボクたちが違っていたのはGさんは加川良さんを教えてくれて、玉ちゃんは生き方を教えてくれて、Oさんはパチンコの釘を教えてくれて…、彼らがボクには何も求めなかったことだ。

純粋で無垢な子供が都会に出てくると、こういうこともあるのだろう。というか13歳という年齢は純粋で無垢なのだけれど…。なんだかあってはならない事件だと思ったし、これでこの国の何かが変わるのかなあ、なんて思ったのだ。

あの日、あの街の文化会館の中ホールは、たぶん半分ぐらいの入りだったように憶えている。加川良さんの「冬の星座」にずいぶんと感動して、それからいつも聞いていた。「教訓」は歌ったのだろうか?それは憶えていないのだ…。コンサートのあとボクたちは、ボクたちが通っていた居酒屋に行った。そうして焼酎を飲んで、何かを話した…いや話さなかったのかもしれない。もうあの居酒屋も店を畳んでしまったのだろう。女将はあの頃60歳を過ぎていたのだから89歳…。

10人ぐらいの仲間(とボクが言うのは生意気なんだけれど)のうち、2人が自殺して、1人は事故で死んだ。「死にたい」と言う人はいたけれど、「殺したい」という人がいなかったのは、そういう時代だったからだろうか、それとも、たまたまだったのだろうか。

加川良 A Live チケット

命はひとつ 人生は一回
だから 命を捨てないようにね
あわてるとついフラフラと
お国のためなどと言われるとね
青くなって しりごみなさい
逃げなさい 隠れなさい
加川良「教訓Ⅰ」

4件のコメント

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    テルさん、どうも。
    そういえば、一周忌だったんだね。なんて想い出した。それほど、忙しく過ごしているつもりはないんだけれど、それほど、過去なんてのは置き去りにされるんだろうと、思っています。
    正義、こそ全てじゃないかと思っています。
    そう亡くなったKさんは教えてくれました。正しいことをすれば後悔なんてものはなくなると。
    ずいぶんと正義感の強い人で、というか、それだけが彼を動かしていたようにも思います。
    ボクもそうありたいと思っていて、他人の評価よりは自らの正しい行動こそすべてだと。
    成功なんてものよりは、いかに正しい行動をするかってことなかなあ、なんて思ったり。
    そう思うんだが・・・。

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    田原笠山さん、こんばんは。ご無沙汰しております。
    いよいよ今週木曜日から1年の半分である6月に突入しますね。梅雨にも入るので安全運転でお仕事に努めて下さいませ。
    田原笠山さんからこの文章の返信を頂いてから時々読んだりして考えたりしていました。女性と接するのも年齢を重ねたら変わるのかなあという部分は職場のベテランの男性の女性との接し方を見ていて思います。私はどうも経験が少ない分、緊張して女性にはあまり良くは思われない面がありますので「ああ、そうなんだな」と思ってしまいます。
    きっと多分今の自分が形成されていく面においてあの時ああしなかったら良かったみたいな後悔も必要だったんだなと思う時があります。実際成功ばかりの人生というのは多分ないんだろうなあなんて思います。それよりは、泥臭くても失敗ばかりで色々知れる人生も面白いですねなんて思います。

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    テルさん、こんにちは。
    経験について、ずいぶんと考えたこともあったのですが、今は、あの頃の経験があったからここで踏みとどまっている、と思っています。
    ボクがやってきたこと、それは無駄だったりすることなのかもしれないけれど、それがあったからこそ、まあ、これぐらいですんでいるんだろうと考えています。
    もう少し年齢がいけば、年下と話すことの楽しさも分かるのかもしれませんね。というか、女性もそうなんだけれど、話しやすい年齢層みたいなものがあって、例えばボクたちが20歳の時、40歳の人は上なんだけれど、ボクたちが50歳になったら、40歳は下で。
    その時に、「あ、40歳あたりがボクの好みだったんだなあ」なんてきっと気づくのかなあ、って思ったんですが・・・。
    「心の狭さ」というか、これはもう好みの問題で、日本酒が好きとか、焼酎はダメなんてことと同じかもしれないと、思っています。
    まあ、酒ならなんでも、なんて酒豪もいますが・・・。でも、女ならだれでも、だとちょっと嫌だろうし、ね?
    テルさんも、風邪ひかないように。

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    田原笠山さん、こんばんは。何となく昔の日記を拝見していたらこの日記に目が入ってしまったのでコメントをします。
    年上といると心が気楽というのは分かってしまいます。私も年上の人の方が接しやすいし気兼ねなく色々な事を話せるような気がします。逆に年下、特に純粋無垢な年下の人は何故か緊張してしまいます。多分、私の心の狭さの表れなのかなあと思います。
    田原笠山さんがこの時に懐かしんだ歳はきっと私が今迎えている年齢なのかなあと思います。そして、多分私自身もくたびれた若者の1人なんだとこの日記を読んでみて感じました。
    雪と寒さが一段とひどくなってきておりますので、お仕事の際はお気をつけて下さい。

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