さよなら田中和風寮

田中和風寮た取り壊された。ただ、あの頃は、そのまま残っている。

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
(マタイ27・46)

そしてまた春がやってきた

2004年、トヨタの街に初めて来た年、時間は哀しいほどゆっくりと流れていて、花びらはその哀しみの涙に接められて散ることができないでいた。その11階の建物はボクにとってはゴルゴタの丘のように思えた。周囲の風景とは隔絶した風貌は乾いているのだけれどいつも黴臭くて墓石の輝きを放っていた。ボクたちはそこに夢とか希望なんてコトバを見出すことなんか出来ずに、ただ沈黙の中に自らの存在を確認する作業を繰り返していた。

あの2004年のことを書こうと思っている。

 

あの年のこと。


ボクが住んでいたあの街のことと、そして、あのビルでの出来事。ボクがこのブログを始めるきっかけとなった出来事が起きた日々のこと。ボクがまだいまより3歳若くて、そしてボクがまだ今よりももう少し夢を語れた頃、そして辛く悲しい思い出の頃。

 

まだ感触として残っている、あの夏のこと。肌に少しだけマトワリつくような空気。ちょうど、この街の風のようなカンジの感触、それが残っていて、ボクを、悲しくさせる。いまでも夢に出てくるTさんと最後に会った日や、Kくんの声を最後に聞いた日、Mさんが泣いていた日々。

 

あの頃、ボクたちは猛暑といわれた夏をどう越すかということよりも、やはりベルトコンベアで運ばれるような日々を送っていて、やはりプラスチックのような街で、少し生きることの意味をなくしていて、幸せなん言葉を使うことを、やっぱり少しだけ怖がっていて、その日の無事終わることを、ひたすら祈るような日々を送っていたんだ。

期間工物語 田中和風寮の想い出

あの年と、11階建てのビルはボクたちの記憶の中になにかを残している。それは後遺症と言っていいのかもしれない。3歳若かったボクはあれから9歳年を重ねて、また同じ春を同じトヨタの街で送っている。同じ春を送っているのだけれど、もうあの時と同じように人生というものを考えることができないでいる。後遺症に悩まされながら生きている。

行方不明になったTさんは(自死したと噂されたのだけれど)どうなったんだろうか?ひっそりと退寮したKくんのその後の人生はうまくいったのだろうか?飛び降りた若者の魂はどこを彷徨っているのだろうか。

ボクたちのいた田中和風寮が取り壊されているそうだ。

最後に一度見に行けばよかったと思っている。ボクたちの何かが葬り去られた刑場、あるいは墓地。そして今もなお何かが彷徨い続けている聖地。

Tさんを探しにやって来た母親の声が今でも耳に残っている。「冬のソナタ」に涙をながしていたMさんのすすり泣きの音が聞こえてくる。そしてボクのため息がここいら中に張り付いている。

田中和風寮取り壊し

寮の取り壊し – toyotadeikiru Jimdoページ
日本共産党トヨタ自動車委員会からの画像です

3件のコメント

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    昔は高卒新入社員受け入れ寮でした。
    多くの若者が全国から集まっていました。
    それぞれに想い出は有ると思います。
    昔の高卒女子一般職仕事はコンピュータに代わり男性職員の職場結婚は益々厳しくなっているでしょう。

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    こんにちは。
    そうですねえ。なんというか、ここにいること自体後遺症みたいなものだろうし…。トヨタのような大量に非正規雇用システムがなかったらこの国ももうすこし違っていたかなあ、なんてことも思ったり。
    そんな春ですねえ。タネを撒いたり、苗を植えたり…。

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    むしろベルリンの壁の崩壊になぞらえたい。
    えぇ、なぞらえましょーよ
    確かに後遺症のようなトヨタPTSDのような物は生活習慣の中に未だありますね。
    休憩とかゆっくり取れないし(休んでると罪悪感のような焦燥感とか)
    休みの日も何かせかせかしている自分が至りとか・・・
    今年は畑に力を注ごうとか思ってます。
    とりあえず放射線量は基準値くらいになってるので安心してますが
    商売にはなんないでしょうけどね。風評被害っていうかそんな感じで。

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