2月2日のこと
アルバムの中にある過去は少し色褪せてはいるにしてもまだしっかりと重量を保っていてその時間を繋ぎとめていた。過去の上に染みを着けているのはボクの哀しみとか悔いなんてものでそれが時間を立体的にしていた。
Kさんの訃報を聞いた時にボクは悲しいという感情よりも後悔という気持ちのほうが強くてこんなに近くにいながら一度だって逢いに行くこともせずにいた自分を悔やんだ。その悔しさが涙に変わった。去年の夏にTと一緒に行けばよかったなんて思った。そう思ったらまた泣けてきた。
満月も近い夜のその底をボクは歩いた。手足の感覚は鈍くなっていったのだけれど感情は麻痺しきれずにのた打ち回っていた。人間は死んで人の心に残る。死者の痕跡の中でボクたちは呼吸をしている。
ボクはコンビニに入ってカップ酒を買って一息に飲んだ。
追悼
実はあなたに逢うことに少しやましさみたいなものがありました。こうしてなにか不本意に生きている自分を見せていいものかと考えていました。年賀状のひとつも出さなかったのも、そんなやましさがあったからだろうと思っています。
ボクたちはいつも酒を飲んでいましたね。とにかく夜になれば飲んでいた。純粋に生きることを教えてくれたのはあなたでした。酒を飲むときはただ酒を飲むことを考えていて、人と接する時はただその人のことを考えるということを、利己でもなく利他でもなく、その真ん中あたりで生きることの美しさみたいなものを教えてくれました。
ボランティアスピリッツ、公益を考えるということを教えてくれたのもあなたでした。バランスのとれた感情、思考の大切さを教えてくれました。
あなたと飲んでいる写真を大切に持っています。もう20年以上前の写真です。少し色褪せてはいるにしても、こうしてたまに見ては、あなたが教えてくれたことを思い出しています。たぶん、ボクたちの心の中には、ずいぶんとあなたの魂が残っています。
あなたが生きていようが死んでいようが、それはボクたちの関係性になんら重要なことではないように思います。だってボクの心の中には永遠にあなたは生きているのですから。もうあれから20年も会っていないのだから、21年も22年も同じことだと思うのです。ボクが死んでしまう時だけが本当のお別れなんだろうと、今は思っています。その時になってお別れを言うことにします。じゃあ、また。
真夜中の向山梅園までボクは歩いた。春の気配、梅の蕾が月夜に浮かんでいた。