まるで孤児のよう

「花子とアン」が最終回を迎えた。十数年ぶりにキチンと観た朝ドラ、終わったのかと思うと、なにか寂しい。

152話、孤児二人を引き取ったかよが言う「世の中を渡ってゆくにはそれぞれ割り当てられた苦労をしないといけない」と。

そして花子が「マリラみたい」と言う。

マリラみたい、そう「赤毛のアン」の有名なシーンをそのまま再現している。My time has come at last.「ついに私の番が来たの!」

アン・シャーリーは生後まもなく孤児になった。両親は病死だった。かよが育てた幸子と育子も孤児だった。両親は戦争で死んだ。そのかよ自身も孤児だった。貧困から売られるように紡績工場で女工になった。そして郁弥の死によってふたたび孤児となった。

戦争は多くの孤児を生む。そしてこの国にも多くの孤児がいた。いやこの国自体も孤児だった。人びとは多くの孤児の中にいて「割り当てられた苦労」を行った。それがこの国の戦後だった。ほとんどの人に「番」がまわって来た。それが戦後からの復興だったし高度成長期だった。

そして今もボクたちは多くの孤児のいる社会で生きている。例えば経済戦争で大量にうまれた非正規社員、期間工や派遣社員はまるで孤児のように生きている。社会のどの部分と繋がれば良いのかさえ分からずに、焼け跡の闇市を彷徨している。

個室という塒はあっても帰る家がない。繋がれているどころか用済みになったら捨てられる運命なのだ。あるいは震災で本当に孤児になった人たち、仮設住宅で孤立化している人たち、故郷を捨てて都会で孤児のように生きている若者たちがたくさんいる。例えば加藤もそうだった。例えば君野もそうだ。

この社会は、本当は、今こそマリラを必要としている。ブラックバーン校長を必要としている。そして赤毛のアンのメッセージを必要としているのだ。

ボクたちは薄々分かっている。ボクたちは意図的に「番」を見過ごしているのだ。「割り当てられて苦労」なんてものを放棄しているのだ。そうしてこの社会は孤児を見殺しにしている。そのツケが回ってきているのだ。

そうしたことへの無力感や罪悪感、後悔や懺悔なんてものを持ちながら生きている。赤毛のアンの持つ力をボクたちは信じていて、それに憬れていて、そして画面の中のボクたちのヒーローやヒロインに拍手喝采をしているのだ。ちょうど力道山の力のように、ちょうどウルトラマンの力のように、ちょうど仮面ライダーの力のように。

人びとはいつでもヒーローやヒロインになれる。各々がそれぞれの場所で「番」を実行すれば良いだけの話なのだ。そういうことをボクは「花子とアン」の最終話を見ながら思ったのだ。そうして文学の持つ力を「やっぱりね」」なんて思いながら最終話を見たのだ。

きっとボクと同じようなことを考えながら見ている人も多いのだろうと思いながら。そしてやっぱり吉高由里子は魔性の女なのだ、なんて思いながら…。ごきげんよう、さようなら。

九月 豊川の川原にて

2件のコメント

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    衣………父さん、おひさしぶりです。
    衣………父さんは、そういう状態でも気丈に振る舞われているようなので、ボクなどは逆に勇気をもらっていますけれど…。
    タクシーに就職する人も、就職難民からの人が多いようにも思います。ボクもそうだったんだけれど。
    タクシー運転手もそれほど悪くないと思ったりします。こちらでなら少しは手助けもできるかもしれませんけれど…。

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    ご無沙汰しました、笠山さん。昨夏離婚し、就職難民になり生保暮らしでしたが、やっと抜け出せそうです。上手くやりくり出来ず、何日も食べられなかった事がありました。このまま永眠したら、楽かな?と思いながら布団に、くるまってました。年老いた父親がいますが、ケアセンターに入っています。自分は、後
    何年生きねばならないのだろーといつもボーッと考えております。

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