除染作業員募集

「除染作業員募集~皆さんのお力をお貸し下さい~」

そんな広告が今朝の新聞に入っていた。木犀の香りに混ざって過去の記憶が蘇ってきた。乾いた風が記憶にマトワリついていた。あのバルバレの効いたインジェラや鼠蹊部が痺れるほど甘いチャイの味の記憶までもが蘇ってきたし、すぐそこに感じられた。

福島に行ったのはちょうど1年前のことで、まだ、あの小雨の降る福島駅の夜のことなんかをキチンと憶えている。まだ一年前のことで、まだフクシマは終わったわけではなくて、まだ人々は苦しみの中にいて、まだ何も片付いてはいない。

その広告の是非とか、その広告の善悪とか、そんなものよりは、その広告が、モノクロの広告が、あの1985年にピューリッツァー賞の一枚の写真「Ethiopian Famine」をボクに思い出させた。

あの時と同じような感覚だった。その写真はボクの何かを強烈に揺さぶった。数週間、その写真に悩まされた続けた。ボクは実際におう吐し、実際に涙を流し、実際に気が狂いそうになった。要するに憑りつかれたのだった。

一年前の福島の記憶のその向う、まだボクがいまよりも随分と若かった頃のことだ。

それににた感覚だった。ボクは何か見てはいけないものを見てしまったようにも感じた。というよりも、ボクの中にまだそういった血が流れていることに驚いたのだ。ボクはボクのためにだけ生きていたんだし、ボクはほとんどのものを捨てて生きていたのだし。荷物も恋人も家族も親兄弟さえも捨てて、40リットルのザック一杯分の人生を生きていたのだし。

どうぞどうぞ、ボクのこんなちっぽけな命でよければお使いください…なんて思ったところで、やっぱりボクは、明日の朝起きればいつものように出勤して、いつものように一日をやり過ごしているのだろう。

「皆さんの命をお貸し下さい」それでも良いのだと思う。ボクの命ひとつで、たとえば、ひとつの命が救われるのならばそれはそれで正しいことかもしれないのだし…そう思ったところで、ボクはボクの血の気配を感じたとしても、ここから動けないでいるのだし、明日の朝起きればいつものように、知らん顔を、世の中のこと全てに対して知らん顔を決めこんでいるのだろう。

除染作業員募集

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

「座蒲団」山之口獏

2件のコメント

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    福島52歳さん、こんにちは。
    地元の評価…原発関連の作業、復興関連の仕事についてはピンハネや助成金の悪用なんて負のイメージ、不透明感を拭い去るこことが出来ないということもあるかもしれませんね。
    それでも参加する人の何割かは(何パーセントかもしれませんが)「復興のため」なんて高揚した気分で、ボランティアスピリッツを持っていると思ったりもしています。
    除染作業をすれば、少しでも早く地元に帰れると思っている人たちも多いのでしょうか。
    途上国への援助みたいなもので、その効果なんてのはすぐには現れない場合が多いのかもしれないと思ったりもしています。
    期間従業員よりは除染作業員のほうが、なんてことも思ったりもしているんですが。

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    身近に感ずる地元福島の空気ですが、
    他県からの除染作業員は必ずしも
    歓迎されているとは言えません。
    感謝とともに、軽蔑を受けている。
    ダメ人間のする仕事とされていて、
    地元の人間が除染に行くことは恥ずかしいことだとの評価です。
    仕事内容に比べて給与が低いので、品性に問題のある作業員が多いのは仕方のないことだと理解しています。
    誰も戻りそうにもない汚染区域を除染しても無駄だろうし、
    現に今、人が放射線に我慢しながら住める街の除染に、大きな意味があるのかと思っています。
    福島の除染を急がなくても、
    自然減衰を待てばいいのではないかと思っています。
    県民性もあるのでしょうが、地元では、暢気なものです。

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