黄金餅

わあわあ言いながら下谷の山崎町を出まして
あれから上野の山下へかかってまいりまして
三枚橋っていいますから、三橋をどんどん
あれから上野の広小路にでまして
新黒門町から御成街道をまっすぐに
五軒町に出て
当時堀丹波守様というお屋敷の前を通って
・・・

落語「黄金餅」の道行きの言い立てだ。(談志師匠のものを書きとった)

いったい貧乏とはどういうことなんだろうか、なんて考えている。
談志師匠は「飢えと寒さ、南国だと飢えと暑さ」と定義する。そうなると、この国でどれほどの貧乏人がいるのだろうか。

黄金餅の登場人物はすべて「すさまじき貧乏」の中にいる。ボクたちが想像できないほどの貧困。例えば志らく師匠の「黄金餅」だと、酒も飲めないものだから新橋の夜明かしの屋台の傍で、飲んでるイメージをして、そうしているうちに酔っぱらった気分になる。

飢えのある場所には残飯も存在しないのだ。そうして餓死しそうな人に対してめぐんでやるほどの余裕もない。貧しさの中にあるのは貧しさで、「猫の皮むき」「犬殺し」で糊口を凌ぐ、「貧民窟の闇」、それが「すさまじい貧乏」ということなのだろう。

そうして、この噺は、一種言わばホラーだ。貯めた金に気が残って死ぬに死ねない西念という物乞い坊主が、その貯めた一分金、二分金を餅の皮に包んで飲込み、そして死ぬ。西念の死骸からその小粒金をどうにか取り出したいと考え、とうとう焼場で「腹の部分を生焼き」にしてえぐり出す金山寺味噌屋の金兵衛。

貧困とホラー。
でも、そんな「すさまじい」中にも、希望がある。

ひとつは、西念が大金をためることが出来たこと。
もうひとつは、金兵衛が大金を手に入れ餅屋を開き金持ちになったこと。

そんな「すさまじい」中にも、礼儀や道徳がある。

ひとつは、隣人を見捨てることなく大量の餅を買って見舞うこと。
もうひとつは、死んでから奪うのではなくて、キチンと葬儀をして拾うという行為をすること。

どんな中にも希望はある。本当の貧乏とは、そんな希望もないことなのかもしれない、そう思う。逆転出来る人生、そうしてそれをイメージ出来る生活。すさまじい貧困とすさまじい闇、その中にあっても、心には闇がない。最低限の礼儀と道徳は持ち合わせている。

今は、もうそんなことまで断ち切られてしまって、飢えや寒さは凌げるとしても、小粒をためることも、大金を手に入れることも、そうしてそれを夢見ることも出来ない世の中で、人を押しのけ、人から奪う。

そして「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることだけを許される、なんとなく平等のような、なんとなく公平なような社会になってしまっている。問題を「最低限の生活」費にすり替えられてしまっては、例えば談志師匠が言うような「うちの家族は小便だけは2時間かけてやります」なんてことを基準に出来る世の中ではなくて、金をどんだけ使ったかだけが豊かさの基準になってしまい、要するに消費者という貧乏人より低俗な、消費社会という貧民窟より窮屈な、そんな社会に成り下がってしまったのだ。

・・・・・・。

なんてことではなくて、この噺、何十回何百回聞いても、あきないのは、グロおかしいテンポの良さと、ボクたちが忘れてしまった生命力への回帰願望みたいなもの、なのかもしれないと、ぼんやりと考えているのだが・・・。

night pottering in Toyohashi

此岸

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