拡大自殺について考えたこと
休日に「橋のない川」を観る。「破戒」や「砂の器」という映画を知らない人もいるのだろうと思う。
ボクたちは、例えば職業差別されていると感じても、非正規だったからといって解雇されたり、結婚できなかったりすることなんてのはごくまれな話で、その後の生き方では逆転できる場所や機会がある。
すべり台社会だと言っても、滑り落ちた場所はまだまだ立ち上がれるぐらい地面はしっかりしている。
どんな社会でも、弱者はいて、差別される人たちはいる。身分制度の厳しかったこの国でもそうだ。差別し差別される集団を創り出した。そうして今もなお非正規、ひきこもり、犯罪者、移民…次から次へと差別は創り出される。
出自で差別される、病気で差別される、あるいは性的指向で差別されるということは表面的には少なくなったように感じる。だが、非正規やひきこもりの人たちは、ともすれば自己責任で片づけられ、問題をすり替えられ、なにかあるたびに「犯罪予備軍」にされる。例えば、今回の川崎殺傷事件も同じだ。
拡大自殺とは
拡大自殺という言葉があるらしい。自爆テロとは違うのか、そう思った。
拡大自殺(かくだいじさつ、英:extended suicide)とは殺人を行った後、あるいは同時に自殺する行為を言う。
社会に、将来に、人生に、そして自らに絶望したとしても、拡大デモ、とか、拡大テロ、とか、拡大スト、なんてものが世の中のどこかにそういった活動をする場所があれば、そうすればひきこもっている中高年61万人も、参加しないまでも救われるのではないのだろうか。
デモもストも起こらない社会で、いかにも平和な社会で、今もいる差別される人たちは、対峙する相手をも見失って、結局その不満の行き先は、近くの人になってしまう。隣人、例えば親だったり、例えば親戚の人たちだったり、例えば近くの学校だったり・・・。拡大自殺ではなく、本当は自爆テロのようにもボクには感じる。宅間だって上部だって加藤だってテロだったように感じる。
敵は人ではない
国家権力だったり、宗教だったり、イデオロギーだったり、敵が誰なのか、なんなのか分かりさえすれば、行為が正当化され同意され同情もされるのだろうが、そうではない。どこにも不満を吸収する場所や人も、ない。孤立感や無力感は、行き場をなくしてしまっている。
橋のない川の向こうで、どれほど孤立しようが、どれほど差別されようが、その正体が分かっていれば、正義の在処が分かっていれば、無関係な人を巻き添えにすることも、自分より弱者を傷つけようなんてことは、ないはずだ。
そう思うと、ボクたちは、ひきこもりを差別しているものに対峙し(それは消費社会という怪物なのだろうが)、61万人もいるぐらいひきこもるということは普通のことだという発想の転換を、するほうが良いのではないか。そうして、ひきこもり+企業、という新しい就業スタイルを(それは企業の利己的な発想ではなく)創出することも必要なのではないか。
だいたい、満員電車にゆられて毎朝出勤するほうがおかしいんだから。
やすおさん、どうも。
そうでしたか。さみしくなりましたね。
ボクは、母親とはたまに・・・。
なんというか、自分が生きるのが精いっぱいで、親や兄弟のことを考えることもできないってのが今のようでもあります。
いろいろと余裕があればいいんですが。
ブログファンになってもう十数年。
お互い歳をとりましたが、その後の母さん、兄さんとの関係はどうですか??
私は両親2人共、前日まで元気だったのが突然失い、後悔の念に苛まれたものでした。
会える時に会った方がいいですよ、親族には。
やすお