熊本にいた頃 – 6年目の祈り
熊本にいた頃。湯らっくすがまだ、今ほど有名ではなく、運行代行をしていたKちゃんがそこをねぐらにいていた頃、ボクはまだ、人生をそれほど難しくも考えていなかった。
通算で10年ほど住んでいた。愛知県へは熊本から来た。そして期間工の間の住所は熊本だった。Kさんのことを2007年にブログに書いていて、その健康ランドというのが湯らっくすのことで、いろいろなところでその名前を聞くたびに、あの頃が近くに感じる時がある。
代行運転に勤めているKちゃんは、健康ランドに朝から宿泊して夜出勤しています。そんな生活がもう5年ほど続いているのですが、Kちゃんは「アパートに住むよりも楽だし、金もかからない」と言って、もうそこを「動く気なんかないもんね」なんて言っているようです。
ブログの中にはあの頃の思い出がたくさんあって、あの頃の風景が、霞んで存在する。
Kちゃんがどうなったのか分からない。
住んでいた春日や田崎の街を地図で眺めては、懐かしいね、なんて独り言ちる。そして涙が流れたりするのだけれど、街が変わってしまうのは仕方ないとしても、名前も忘れてしまった人が多いこと、そのことでまた悲しくなる。
蓮台寺の自称「お好み焼き」屋さん、そう言えば「ちょぼ焼き」なんてのもあった。二本木の黒亭はカップ麺になっていて懐かしかった。田崎から金峰山に歩いて登ったこともあった。近くの喫茶店のマスターと百花園に行った。一心行の桜、大観峰の雲海、菊池渓谷、黒川温泉、熊本城は散歩コースだった。水前寺公園近くの鴨鍋のお店、宇土餅を買いに行った。そう言えば初詣は湯らっくす近くの琴平神社だった……。
そういえば、宝観光タクシー
田崎には、宝観光タクシーというのがあって、そこの若社長やその子供だったYくんにもお世話になっていて、ああ、こんな時世に小さなタクシー会社は大変だろうなあ、なんてあの頃を思い出してしまう。
たまに息苦しくなる。たぶん、経験がある人も多いのだろうけれど、どうしようもないこと、例えば会いたくても会えない人のことを考えると、胸が苦しくなる。
きっと、絶望、というか、その「会えない」という決定的なことが、息苦しさの原因なんだろうと思う。10年ほど前には、それぐらい若い頃は、その「人生をそれほど難しく考えていなかった」頃は、こんな息が停まりそうなことはなかったのに……。
人はよく「時が解決してくれる」とか「時間が忘れさせる」なんて言うのだけれど、その反対のこともある。というか、反対のことのほうが多い。どんどん解決を難しくし、時間が着色し脚色することだってある。
ボクの熊本での思い出もそうだ。
もう逢うことのできない人や、会うことのできない風景、そういったものに対して、こうして息苦しさを感じてしまう。
探しても見つからないもの、探そうとしてもその手がかりもないもの、そんなものが生きているうちに現れる。人であったり風景で会ったり。ボクが遠く離れてしまったり、ボクから遠く離れてしまったりした、人や風景。
最後に見た熊本は2008年春、あれから14年。
そうしてボクの胸のあたりには、こうして遠のくものに感傷的になっている間にも、自己嫌悪と自責と罪悪感なんてものが積み重なってゆく。
うまく生きてくることが出来なかった。ただ大きく道を外すこともなかった。運が悪いこともなかったし、運が良かったこともなかった。
人を苦しめたこともあったけれど、人から苦しめられたこともあった。
さよならも言ったけれど、さよならと言われたこともあった。
傷つけられた分、傷つけたかもしれない……。
ただ、街は、熊本は、住みよいところだった。
世安橋ちかくのスポーツ用品店でアルバイトを始めた金さんはどうしたんだろう。
郵便配達をしていたTちゃんは元気にしているのだろうか。
というより、本当はね、「生きているんだろうか」そう思っているんだ。
それは、あの地震があったからなんだけれど。
そう思いながら、全てを投げ捨ててここにいるボク自身の不義理に恥ずかしくなったりしている。そうして「どうかみんな元気でいてください」なんて、祈っては、その罪に対して、本当はね、息苦しさを感じていたりしているんだよ。