出逢うな、そうキリンの絵を見ながら考えた5月の歯医者
五月の午後の少し柔らかい日差しが壁に貼りついていている。歯医者のその壁にかかっている黄色いキリンの絵には「I wish you every time smiling」と描かれている。ボンヤリとした意識の向こうで鼓動のように聞こえる子供の頃のボクを呼ぶ声とか、その先に見える春のキラキラした海に浮かぶ漁船のエンジン音とか。
人の怒りや憎しみや恨みは、いったいどこに行くのだろうか。やはり焼かれ土に還る日までボクたちは持ち続けるのだろうか。理性の、いや、人のなんと無力なことか。肉体だけではなくて、感情さえもコントロールできないでいる。
歯医者の椅子で、その場所には似合わないことを考えていた。
神が、出逢いという喜びの隙間に怒りや憎しみや恨みを埋め込んだ理由は、きっと出逢いを戒めるためなのだろう。無秩序に無思慮に無限定に出逢いを求めるなということ。そうしないとボクたちは人によって苦しめられる。
長い時間を失語症の中にいた。そのほうが楽なのだ。この口は、それほど器用ではなくて、例えば食べるだけのために存在すればそれでいいのかもしれない。歯は器用に記号を音に換えるためにあるのではなくて、噛むためにだけ存在すればいいのかもしれない。
ボクはしゃべることを禁じられたその椅子でそんなことを考えていた。
いや、神の戒めとは逆に、口や歯や舌や声帯なんてもの以外に、ボクたちはキーボードとか電波なんて出逢いの道具を、すでに手に入れている。ついに無秩序に無思慮に無限定に、ボクたちは苦しめられることになってしまった。そうして怒りや憎しみや恨みだらけの世界の住人になってしまった。
口は、ボクの考えとは少し違って、もうすでにかなり前から噛むためだけに存在する。人の身体は食べるためにだけに特化されてしまった。
そんなことを考えながら、歯医者を出ると、躑躅の花が土にへばりついていた。半ば腐っていて土に還ろうともがいていた。その花は人が植えたものだ。
画像は神武天皇陵