熊本地震でボクたちが考えたこと

ニュースの量とは逆に、被災地の人々の痛みは、日々増しているんだろうと、思う。ここにいて、例えばまったく熊本のニュースが届かない日(それはボクが忙しかったりしてテレビやラジオや新聞なんてものを見ない日もあるということなんだけれど)があると、遅い朝の緩い陽の中にいて、世界はまったくの平和で苦しみから解放されているように、感じてしまう。

人は痛みとか哀しみとかから遠ざかろうとする。ニュースの量は、あの東日本大震災よりはかなり少ないように感じる。原発や津波がなかった分、ボクたちは安心しているのかもしれない。原発は津波がなかったから、援助も復興も遅れているのではないかと、思ったりもする。人々の痛みは同じだとしても。

ボクと順が震災直後から話したことについて、そうしてボクたちが考えたことを、少しだけ書いてみようと思う。

1・指定避難所に避難できなかった人たちに対しての救援活動が遅れたこと。

熊本地震 順とのライン1

「指定避難所ではないので食料も水も救援物質は0」

あれほどの大きな地震になると、とりあえず近くの安全な場所に避難するのは当たり前のことで、住んでいるところから2キロなんて長距離になる避難所まで老人や病人、あるいは夜間にどうやって行くのだろうか。もう少し指定を分散する、とか、食料備蓄を狭い範囲で行う、なんてことが必要ではないのか。近所の避難場所で救援活動を待つ、というのが正しいように思う。

大地震の場合、各家庭に備蓄している食料や水なんてものを持ち出す余裕すらなくなる。だから地震の規模が大きくなればなるほど分散は必要になる。そうしてその避難場所においていろいろな手続きが出来るように役所の機能も分散したほうがいい。

安心できる避難所がなかった、だから前震後に半壊の家に戻る、本震で全壊して亡くなる、ということだったのではないのか。

2・義援金の使われ方

熊本地震 順とのライン2

「一部損壊は一円も貰えない」

こういった絶望感みたいなものと、支援格差みたいなものが、人々の心をさらに痛めつける。そしてボクたち心に無力感を生む。いくらテレビで「振り込んでください」「すべて赤十字を通して」なんて言われても、ほんとうにそれは被災者である順の手に届くのですか、と思ってしまう。

確かに支援物資としていくらかは使われていて、その物資を利用しているとしても、結局は震災格差みたいなものがうまれる。順のように「だからもう働く」なら望みはあるけれど、逆に「それならいつまでの避難所にいる」なんて人々が刹那的に無力化し、そうして弱っていく。

不公平感が復興の妨げになる。そうしてボクたちの心に無力感と不信感が蔓延する。義援金の額も、東日本大震災より少ないはずだ。だって不公平で不公正、おまけに詐欺的な使われ方だってされたわけだし、そんなことをボクたちは見てしまったのだから。

3・罹災証明

熊本地震 順とのライン

「建物に被害ないので私はもらえないらしい」

これが一番の問題だと思う。

罹災証明に時間がかかるのはしかたないとしても(手続きをするのも被災者なのだろうから)、全壊、半壊、一部破損、なんてものが公平公正に分別できるのだろうか。まして、アパートに住んでいる人たちは、生活用品すべてを失ったとしても「もらえない」ということが、正しいのだろうか?

震災でも格差。ということなのだ。

そして貧しいがゆえに余震の起こる中働かなければならない。例えば非正規の人たちは、震災だからと言って休むと給料もでない。会社からも国からも、そして義捐という人々の優しさからも置き去りにされる。

それは正義ですか?それがこの国の本当の姿ですか?

無縁国家、なのだ。

震災があってどれほどみんなが涙を流しても、その瓦礫の中で、誰の助けもなく、相変わらず以前のままに、這いずり回らなければならない人がいる。経済被災者として傷つき、今度は地震被災者として傷つく。

被災地にいた人たち全員に罹災証明を直ちに発行して、とりあえずなんらかの手当をすることが必要だと思う。心の傷が、それで、多少なりとも癒される。特になんの希望も期待も持てないでいる人たちにとっては。

夢と希望を、すべての国民が持つことが出来る、それも国家の目的であるはずなのだ。それがリーダーのやるべきことなのだ。

そう思う。そう思ったところで、相変わらず順は働いていて、そんなことを考えることなく忙しさの中に埋もれているんだろうと思う。ボクは、また自問の中にいて、もうそれはループ状態にあって、逃げ出せないんだけれど、またお腹が空いたなんて感じていて、自分を軽蔑していたりする。でも、どうしようもないんだよ・・・。

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