結願、金曜日のこと
そして金曜日の夜。
一週間は過ぎ去ってしまえば4日間しかなくて、実量よりも5分の1だけ軽いものだと、ふと今考えているんだけれど。
そんな金曜日のこと、さよならのこと、こんなことを書いていたんだなあ、なんて読み返していました。
さよならTさん
最終日の満了日。どんな気持で最後のバスに乗り込むのでしょうか?GLや社員の人たちの「また来るんだろう」や「また来てください」という言葉は、決まりきった手向けの言葉のようで、どこか虚しく響くのは、ボクだけでしょうか。それとも、その言葉が「別れ」を儀式化するためのものなのでしょうか。いくつもの出逢いと別れの度に、感情を動かしていては疲れますもんね。
期間従業員にとっては、満了日は唯一の日なのですが、GLや社員の人たちにとっては、百分の一や千分の一の出来事なのでしょうね。それが分かっているだけに「やっと終わった」ということよりも、自分の存在と言うものに対しての虚無感というもののほうが、大きいのではないかと、思ったりしているのです。
別れの金曜日
リサイクルステーションには、捨てられた安全靴や作業着があって、投げ捨てられたそれら神聖なるものは、異教徒から首だけを切り取られた仏像のように、そこからは憎悪といったものが感じられたりします。最後唯一のトヨタへの反抗なのかもしれません。
あまりにもあっけない幕切れ、従業員証と保険証を返し、少しの挨拶、「別れ」というセンチメンタルな感情は、多くの「週末」という喜びの感情に打ち消され、別れという有史以来もっとも悲しむべきだろう行為は、朝起きたら顔を洗うというほどの行為と同程度に扱われることに多くの期間従業員は戸惑うのでしょうね。
そしてやはりいつもと同じバスに乗り込み、何事もなかったようなかったようにバスから降りる。それが最後の日ということを知っている人はいない。そして時間が過ぎると自分のいたという形跡までもが無くなってしまうのでしょう。
別れの金曜日(2)
金曜日。そして満了日。今日も多くの期間従業員たちがそれぞれの思いを胸に満了していったのでしょうね。楽しかったり、寂しかったり、辛かったり、悲しかったり、虚しかったり、切なかったり、悔しかったり、情けなかったり……、人のもつありとあらゆる感情が思い出と一緒に織り込まれているのでしょうね。
「もう来るもんか」なんて思っていても、また来ることがあるかもしれません。ボクのように。でも、ほとんどの人にとっては、最後のトヨタなのでしょうね。一期一会。もう逢うこともないのでしょうね。というか、あなたもボクも、誰だか分からない出会いだったので、それはなんというか、とても切ない感じもしています。
またどこかで会えるといいですね。そのどこかは、ボクがボクらしく、そしてあなたがあなたらしく振舞える場所であると良いのだけれど…。じゃあ、さよならだ。
トヨタ期間従業員に“また”行こう
今週からは交代の人の訓練、引継ぎで少し楽な、いえ、今までで一番楽な一週間になるかもしれないですね。そうしている間にそれまでの辛い思い出や嫌な出来事も忘れてしまい、「トヨタって楽かも」なんて気持ちとすり替えられてしまうのかもしれないですね。
そして最終日、「また来るんだろ」なんて呪文をかけられてトヨタを後にする。地元に帰ってトヨタからの送付物が来る二週間の間に、「また来るんだろ」は「また行こうかな」と変わってしまって、失業給付を受けている間には、もうその呪縛からは逃れられなくなって「また行かなくちゃ」となってしまうのかもしれないですね;)
その頃には、筋肉痛に眠れない夜の思いでも、あの食堂の味噌汁の味も、全てのトヨタでの日々が愛おしくなってしまっているのかもしれないですね。快感は痛みをともなうものです。
トヨタ期間従業員に行こう | 離愁
窓の外にはいつも見ていた風景で、そのことがなおさらボクの気持ちを悲しくさせるようでした。もう何百回も見たその風景も見ることができないと思うと、ボクが想像していたよりも最後の送迎バスは悲しいものになりました。
Sくんと一緒に帰りました。Tさんは寮が違うのでバス停で別れました。Mちゃんは年休でした。あのね、別れるのってのはけっこう後からくるもんなんだよ。