別れの金曜日

やはり金曜日は、喜びや寂しさなんてのが複雑に入り交じり、その思いが帰りのバスの中で押し殺され、車内の気圧や温度を上げているように思う。

さよならTさんでも書きましたが、金曜日は花の金曜日であると同時に、期間従業員にとっては満了を迎える日でもあり、そのことが喜びと寂しさとなって、そして表現されることなく、やはりいつものバスの中と同じぐらいの沈黙の中で、空気だけが重くなっているように感じます。

リサイクルステーションには、捨てられた安全靴や作業着があって、投げ捨てられたそれら神聖なるものは、異教徒から首だけを切り取られた仏像のように、そこからは憎悪といったものが感じられたりします。最後唯一のトヨタへの反抗なのかもしれません。

あまりにもあっけない幕切れ、従業員証と保険証を返し、少しの挨拶、「別れ」というセンチメンタルな感情は、多くの「週末」という喜びの感情に打ち消され、別れという有史以来もっとも悲しむべきだろう行為は、朝起きたら顔を洗うというほどの行為と同程度に扱われることに多くの期間従業員は戸惑うのでしょうね。

そしてやはりいつもと同じバスに乗り込み、何事もなかったようなかったようにバスから降りる。それが最後の日ということを知っている人はいない。そして時間が過ぎると自分のいたという形跡までもが無くなってしまうのでしょう。


そう言えば蔵王山に一緒に行きましたね

Yちゃんも、昨日8月5日に満了を迎えました。同じ時期に同じ組に入社したので、よく話をしたし食堂へも一緒に行ってました。Yちゃんの満了日もあっけなくて、忙しい日だったので、組の人ともゆっくりと挨拶をする暇もなくて、終業後はいつものようにボクとロッカーに向かいました。そしてそのままバスに乗り込んで、「お疲れ~」といつものようにバスを降りたんです。

明日、日曜日には故郷へ帰るといっていましたから、今日は部屋の片付けなんかで忙しかったのだろうと思っています。ボクもボクで、顔を見せに行けばいいのでしょうが、なんだか「お疲れ~」という言葉が「さよなら」というような感じがして、どうもなんだか躊躇ってしまって、とうとうもうこんな時間になりました。

メールアドレスを教えたのですが、果たして連絡をくれるのかも分かりません。顔を見せないボクのことを、やはり「なんだよ~」なんて思っているのかもしれません。

Yちゃんはボクに住所もメアドも教えてくれなかったのですが、それはきっと照れくさいと思ったのかもしれないし、ボクはまだまだここにいるので、帰省後に寮宛に手紙でもくれるのかもしれないと、思っているんです。それとも、本当はボクのことを嫌いだったのかもしれないなあ~なんて思ったり…。

わずか半年の間だったのですが、ボクにとってYちゃんはトヨタでの思い出の一部だし、トヨタのことを思い出すたびにYちゃんも登場してくるのだろうと思っています。

でも、Yちゃんにとっての半年間は、思い出にしたくない日々だったのかもしれないと考えると、多くの期間従業員にとって、その日々は忘れてしまいたいものなのかもしれないとも、考えています。

そうした忘れたい思い出も、何かに憎悪する気持も、人生にとっては必要なのかもしれない……。そのことが悪いことだとか、良いことだとかは、誰も言えないと思っています。
さよならYちゃん。もう逢う事もないのだろうね。

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