駕籠かきとタクシー
駕籠かきとタクシーについて考えてみた。というのも、落語「抜け雀」のさげ「親に籠(駕籠)をかかせた」について「駕籠をかくような賤しいことをさせたことが親不孝である」という解釈が一般化し普遍化しているからだ。
辻駕籠や雲助なんて違いはあるにしても、そのころの駕籠かきなんてのは賤職として差別されていたのだろう。その名残なのかいまだに運転手を「雲助」とか「運ちゃん」なんて蔑視あるいは軽視する人がいる。
「やれるもんならやってみろ」とボクはいつも心の中でつぶやく。たぶんやれないだろうと思う。
タクシー運転手の離職率
タクシー運転手の離職率が高いのは、なにも賃金の低さだけではなくて職業的難易度のほうが上位の要因だと考える。ボク自身、これまでやってきたどの職業よりも難しい。毎日同じことを繰り返すライン作業なんて屁の河童のように感じる。(なんてことを感じることも職業の優越を説くってことなんだろうけれど)
緊張感とか恐怖感、複雑さなんていうものが難易度を上げる。普通接客というのは対面、あるいはこちら側が有利な態勢で顧客と接するのだけれど、運転手という職業は逆である。いつ首を絞められるか、いつ包丁で刺されるか分からない状況…。酔っ払いは絡んでくる、不機嫌な主婦は値切ってくる。安全運転をすれば遅いと言われ、黄色信号で突っ込めば危険だとクレームの電話…。おまけに密室である。
最近はナビやGPSが付いているから、なんて考えていたら大間違いだ。日本語をしゃべれるから日本語教師や国語の先生が出来るか、なんてことと同じなのだ。
やれるもんならやってみろ。そう言いながらボクは職業にたいしての矜持を保っている。
職業とプライド
タクシー運転手だけではなくて、どんな職業でも極めれば難しい。そして極めようとする職業でもプロはいて、その多くのプロ(職人)たちは自らの仕事に対してプライドを持っている。それがこの国を支えてきた。
ところが最近は自らの職業に対して「最底辺だ」「負け組だ」と言う人が多い。そして自分の不遇さを嘆く人が多い。確かに自己責任だけでは片づけられない問題の犠牲者も多いのだけれど、よく考えれば、自己怠慢からの結果とだともいえるのではないのだろうか。
例えば、ボクサーのような激しい減量をしてきたのか?例えばマラソンランナーのような過酷なトレーニングを積んできたのか。
自己怠慢ではなくて、環境も悪かったかもしれない。それでもどこかに逃げ隠れしていたのではないかと思う。ボクもそうだ。血のにじむような努力はしてきたとしても、実際に血はにじまなかったし、限界まで挑戦もしなかった。
だから、いまいる場所ってのは自己責任だと思っている。不遇なんてことではなくて、運命なのだ。自分の過去は嘆いても現在を嘆いてはいないのはそういうことだ。そして今の位置が自分の実力なのだ。
それが分かっていないと常に自らを被害者にしたて、誰かを怨むようになる。
ボクはここにいて、タクシー運転手をしている。
問題は生き方なのだ
負け組でもなければ底辺でもない。まあ、こんなものかと思っている。それでも好きな女のそばで、好きな女ひとりのために生きるってのは勝ち組だったりするのかもしれないと思っている。
そんな生き方も「やれるもんならやってみろ」なんて思っている。まあ、出来ないだろうけれどさ。
さてと寝るか。
名作 古典落語「蜘蛛駕籠」落語 あらすじ サゲ(落ち) | 落語のススメ