ただ過ぎに過ぐるもの
2015年6月10日
大きなアジサイの株があった空地は宅地造成されてしまって、今はその位置には若い夫婦が育てているカラフルな花のポットが並んでいる。墓石を掃き清める墓守の若夫婦。そしてその新しい家の瀟洒なタイル模様の壁が地層断面図のように見える午後三時にサイダーの雨がそこにもここにも降る。
地層でいえばもがき苦しんでいるアジサイの地下茎とそのカラフルの花の時間的深度はわずかコンマ一ミリにも満たない。大雨が降れば、いや今降っている雨でさえも、その地層の、その表面を、その歴史のコンマ一ミリ未満を、サッパリと跡形なく消し去ってしまう。それほどのシアワセ。なのだろうと、ボクは思っていた。雨宿りの最中なのだ。
梅雨入りした。ああ、やっぱり梅雨はやってくる。そうだと思った。
アジサイの地下茎はまだ生きていて新築の家の重さに瀕死の状態だ。わずか3年前のこと。その地下茎の下にも何かがひっそりと生き延びている。
ただ過ぎに過ぐるもの、帆をあげたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。(清少納言「枕草子」)
安全保障関連法案はこのまま可決され、軍靴の足音が聞こえてくる。戦場で武器を持って戦うのは、国会議員でもなく、論客でもなく、ニュースキャスターでもない。そして戦争になれば自衛隊だけではなくて、ボクたちの身近な人たちが、そしてボクたちが戦わなければならない。そう考えると本当にいいのだろうか。
地下茎のその数センチ下には70年前の哀しみがひっそりと生き延びている。
厚揚げを生姜醤油で食べた…。