世界によってボクたちは変えられてしまっている
春だね。
今年の桜はボクの運転する車の中から見た。そしてそれがまた想い出となる。その想い出の1コマに参加出来たことを、ボクは幸せに感じた。そしてボクも桜の頃になると「あのお客さん、元気にしているかなあ」なんて思うのだろうね。
5年前の春を思い出した。まだお元気なのだろうか、なんて考えた。
タクシーから見える風景、車窓もお客様のものだと、その時強く感じた。その時の感覚がボクをこの業界に引きつけるきっかけにもなった。ボクたちはただ人を輸送しているだけではない。そうしてバスや列車とは違う、もう少しお客様と近しいところで旅客輸送を行っている。おんぶして運んでいるような…。
お客様の肉体だけを運んでいるのではなくて、例えば喜びとか哀しみ、思い出とか出会いとか、それらのものすべてを運んでいるのだろうね。
それでも多くのドライバーは、そんな情緒的なことを考える暇はなく、ただただお金のために人間という物体を運んでいる。公益性とか、いやその前に正義なんてものもでも忘れてしまって、マネーゲームを繰り返している。
それはドライバーが悪い、というだけではなくて、制度自体、例えば歩合制の賃金制度が職業倫理を狂わせているのかもしれないし、道義を見失わせているのかもしれない。損か得だけが行動の基準になる。労働とはそれでいいのかもしれないが、職業はそれとは少し違うように思う。
先週の金曜日の報道ステーションでの騒動以来
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
というガンジーの名言がいろいろなところで聞かれる。
2日後の「花燃ゆ」でも吉田松陰の
「戦いとはただ戦のことをいうのではない、戦いとは屈しない心を持つことをいうのだ」
という名言がドラマで使われていた。
ボクたちは世界によっていつも、そして知らず知らずに変えられようとしている。流されるほうが幸せな時だってあるし、楽に生きられる。自分が何をやりたいのか、やりたかったのか、生き方なんてものを平気で変えることもできる。
それはそれでいいのではないかと思うのだけれど、それでも自分は何のために働いているのか、とか、生きているのか、なんて「しなくてはならない」もの持っていなければならないのだろうし、「いくさ」をしなければならないのだろうと思う。
それはとても簡単なことで、たとえば「子供のため」だとか「女のため」だとかなのだろうと思うのだ。
ここまで書いてきたところで、そういったものもない人は…やっぱり「自分のため」なのかなあ、と思ったところで、それはそれで「自分の生き方のため」で良いのかなあ、なんて考えて、詰んでしまった。まあ、あれだ、人が目的のためにすることってのに、無意味で無駄なことはないってことだ。きっと。そしてそれは結果としてはそう簡単に表れないってことだ。
ということで寝る。
2010年の向山公園の桜。もう5年かあ…。