春の消息(柳美里著)を読んで考えたこと

死ぬこと、と、生きること。
消息の意味。

春の生と死、ということでこのタイトルを付けたのだろう。その春とは、春という季節のもつ時間だけではなくて、死と生の「境界」という場所でもあるのだろう。そうしてその死と生とは、ただ死者と生者ということではない。

「私の上の弟は春樹、下の弟は春逢……。(略)私たち姉妹を美里、愛里と名付けた。」という一節はボクに、消息(死ぬことと生きること)の物語性や関連性を圧倒的に考えさせられる。柳美里さんの「春の消息」とは、ただ単なる霊場巡りではなくて、生きることの本質に迫ってゆく、読む巡礼、遍路の擬死再生の体験・・・。

擬死再生

四国遍路を想い出した。ちょうど今の時期、ボクもボク自身の消息を考えながら野に泊まり歩いていた。人は自分自身の消息を考える。そうして春に逢いたくもなる。ボクたちはそういった場所や時間の連続性の中で生かされている。それを輪廻と言ったりする。転生を待ち望んだりする。ボクは読み進められなくなっていた。その間にもずいぶんと涙は流れていたのだけれど・・・。

「悲しみを重荷のように」ボクたちは感じて生きている。普通はそうだ。どうして悲しいんだろう、そう考えて生きている。というか悲しみから逃れようとする。悲しみを知らない人がいるのも確かだ。

それは死という悲しみをボクたち社会が遠ざけてしまったからだろう。「故人と会うことができる約束の地」がなくなったことも、「葬祭を、葬祭場に任せるように」なったことも、痛みも「圧倒的な青」空もなくしてしまった。「死後世界を未知の恐怖の世界として忌み嫌うように」なった。作者が言う「死と触れ合う時間と場所があると、生がふくよかになります」ということを、悲しみを悲しみとして大事にしなければならないのに、ボクたちはそれを捨ててきた。それが今の窮屈な社会になった原因なのかもしれない。

無縁社会の住人

悲しみを捨て、そうして優しさもなくして、ボクたちは無縁社会の住人となった。これまであった会社という縁までも、同僚という兄弟姉妹さえも、期間工や派遣なんて働き方で奪ってしまった。非正規なんて「非」人を、経済とか消費なんて新しいカミのために創り出した。ボクたちは春を、春に繋がる時間と場所を奪われてしまった。そうしてさらにボクたちは春を、春に繋がる時間も場所も捨て去ろうとしている。その警鐘。それが春の消息ということなのだ。

「死者にとって居心地のよい社会は、きっと生者にも優しい社会に違いありません」
死者を忘れ、悲しみを忘れ、捨て去り、いったいボクたちはどんな居心地のよい社会を作ろうとするのだろうか。「死んだらどうせ終わり」という社会構造、死生観が、無情社会を作り、人びとを狂暴にさせる。

春の消息

きっと、今のボクであったとしても、例えば孤独の中にあったとしても、例えば貧困の中にあったとしても、「孤独のうちに亡くなったとしても、無縁の人はいない」のだろうし、春の物語は綿々と続いて、誰かがボクの消息を尋ねてくれるのだろうと、思ったら、また泣けてきた。

春の消息 柳美里

春の消息 : 柳美里, 佐藤弘夫, 宍戸清孝: 本

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