無観客試合の大相撲で考えたこと
無観客試合での大相撲春場所が終わった。
鶴竜と北勝富士戦、結びの一番、もし観客がいたならば、歓声と飛び交う座布団で、テレビを見ていなくても、どちらが勝ったか分かったのだろうと、思った。
歓声
それは、見方を変えると、騒々しい勝負になれてしまっているということ。だから、真剣勝負の、例えば「息をのむ」と表現されるような戦いからはかけ離れてしまった。それが現在の勝負なのかもしれないと考えたんだ。スポーツがショービジネス化されたからなのだろう。
「無乗客営業ってのは、どうなんだろう」とボク。
「それって、損するだけじゃん」
なるほど、それは成立しないか。
無観客試合のテレビ放映
大相撲も、プロ野球も、オリンピックも、テレビ放映がある。だから、無観客試合でも成立する、というか、利益になる。オリンピックなんてのは、実際に観戦する人よりは、テレビで観る人のほうが圧倒的に多い。開催地がどこだろうが、主権者は関係ないのだろう。
今、ボクたちに必要なのは、COVID-19という邪悪なものが払いのけられ、五穀豊穣と世の平安が一刻も早く訪れる、その希望の明日なんだろうし。
ボクたちは伝統というものの内に希望を知らず知らずのうちに見出している。将来の不安は、きっと、過去の永遠によって払われる。だから歴史は必要なのだ。国家というものも必要なのだ。だから家族というものも必要なのだ。神仏も、そうして天皇も・・・。
無観客試合の春場所を見ながら、そんなことを考えている。きっと「勇気や感動を与え、世の中に平安を呼び戻すことが」できるように、思うんだけれど・・・。
古来から力士の四股は邪悪なものを土の下に押し込む力があるといわれてきました。また横綱の土俵入りは五穀豊穣(ほうじょう)と世の中の平安を祈願するために行われてきました。力士の体は健康な体の象徴ともいわれています。
床山が髪を結い、呼び出しが柝(き)を打ち、行司が土俵を裁き、そして力士が四股を踏む。この一連の所作が人々に感動を与えると同時に、大地を静め、邪悪なものを抑え込むものだと信じられてきました。
こういった大相撲の持つ力が日本はもちろん、世界中の方々に勇気や感動を与え、世の中に平安を呼び戻すことができるよう協会員一同、一丸となり、15日間全力で努力する所存でございます。何とぞ千秋楽まで温かいご声援を賜りますようお願い申し上げ、ごあいさつといたします。