田原市兄弟殺人事件
この物語は、実際に起こった「田原市兄弟殺人事件」をもとにしたフィクションです。
「うるせーな」
夢から引きずり出された苛立ちに正和は弟の雄二に聞こえるような大きい声で言った。
田原市内の自動車工場で派遣社員として働いている雄二は、二直(夕方出勤の深夜終業の勤務形態)が終わってからコンビニで時間をつぶしてから帰宅した直後のことだった。「オレだって気を使ってこの時間に帰ってるんだよ」
控えめに言ったつもりだった。兄弟とその母親の三人暮らし。兄弟で建てた家だった。兄も市内の自動車工場に勤めていた。兄は正社員だったが、ちょうど一年前の、こんな梅雨空の日に、会社に行くことが嫌になって、そのまま辞職してしまった。その時から無職のまま。その時から少しココロを病んでしまっていた。
派遣のくせに
「お前さ、派遣のくせにえらそうなこと言ってんじゃないよ。今の生産台数ならもう少し早く帰ってこれるだろ。残業があったのか」
兄の指摘は正しかった。正しかったのだけれど「気を使って」払暁の鳥の声を聞いてから帰るのが習慣になっていた。
「オレだって頑張ってんだよ」
少し早口で言った。兄弟喧嘩なんてのはしたことがなかった。弟の雄二の繊細さがそれを避けていたし、兄がほとんどの資金をだして建てた家に住んでいるということや、そのためにココロを病んだ、それは雄二の責任でもある。そんな負い目もまた喧嘩を避けさせていた。
ただ今日は少し違っていた。七夕の夕食時に兄の正和から聞いた彼の現役のころのボーナスの額と、それを自慢する兄、感謝する母親。そしてその自慢は弟の雄二の低賃金を際立たせていた。
「今は無職のくせに」心の中で呪った。
でも何も言えなかった。
何も言えない自分に対して、それは幼いころからあった兄に対するコンプレックスの系譜だとしても、嫌悪感が、それもいつものことだったのだけれど、胃の中に充満してきて、疼痛を伴った吐き気になっていた。
近親憎悪
その気持ち悪さは日ごとに増していった。
「オレだって気を使ってんだよ」もう一度そう言ったあとに、雄二は兄の部屋の前を素通りして台所に行く。これはいつもの通りの行動だった。
冷蔵庫にあるビールを飲む。これもいつもの通りの規則正しい行動だった。
飲み干す。
胃液の逆流、アルコールが頭痛を増幅させた。
包丁を握った。
そのまま兄の部屋へ押し入ると、寝ている背中を刺した。
「おい、なにしてんだよ。バカかよ。誰のおかげで生きていると思ってんだ」
立ち上がろうとする兄の胸のあたりを刺した。そして切りつけた。
「おい」そのまま兄は倒れた。
呆然となって眺めていた。俯瞰していたといったほうが良いのだろう。遠い昔のこと、仲の良かった子どもの頃のことが思い出された。喧嘩しなかったのは、自慢の兄だったからだったことを想い出した。
兄の背中を追っている自分が見えた。その背中からは、今は、赤い血が流れ出ている。
涙が流れてきた。懺悔の涙ではなかった。後悔の涙でもなかった。もう届かない遠い過去への決別とか、それを喪失した寂寞感なのだろう、ただただ涙が流れてきた。
逃亡
そのまま雄二は近くの駐車場に止めていた車に乗り込んだ。逃げる、という意思はもってなかったし、そういった感覚さえもなかった。ただ、昔、家族と行った、その遠い過去に兄と行った場所へ車を走らせた。
その場所は容易に思いついた。そしてそこはまた雄二自身の未来へと決別の場所だった。
#なんとなく、そんな妄想してしまった。嫌な事件が起きたね。兄弟の確執ほどやっかいなものはない。ボクが言うのだから間違いない。
田原海岸 吉胡樋門