ユリさんの死(5日目の2)
ユリさんの死、それを告げるメールがこのタイミングで届くことに、怒りのようなものを感じていた。
ボクは地蔵院前の公園のベンチで南の空を見ていた。陰雲は相変わらず時間をも隠蔽していた。それでも、時は流れていた。ボクはそこにいて、そして流れているだろう時に抗っていた。
日記にこう書いている。
『十数年ぶりに逢えると思っていた。ボクはユリさんと100キロメートル少しの距離の所で雨宿りをしていた。
またボクの好きな人がこの世からいなくなった。
メールが届く。
ボクが四国に来る前にユリさんに出したハガキの返事が、ユリさんのお兄さんから届いたという。
十数年ぶりの約束はあと100キロと少しのところでとうとう果たせないことになった。ボクは地蔵院の池の畔のベンチに座っていて、半分朽ちかけた身体を、例えばシュラフに押し込んで13:00の小雨降るベンチでそのまま眠ろうと思っていた。
ユリさん死を告げるものだった。4月に亡くなったということだった。
最後の2か月は緩和ケアで、死を待つ日々を過ごしたという。そのまた2か月前のクリスマスカードにはボクがユリさんにプレゼントした花かごを20年も過ぎた今も大事にしているということを書いていた。
そのことを書くのがいつものユリさんだった。
この十数年間、何度も逢える機会はあったのだけれど…。ボクも何度か四国に来ていたし、高知にも宿泊したことがあった。
でも逢えないでいた。そうして逢える日がやっと訪れたと思ったら…。
なんと運命のかなしいことか、なんと惨たらしいことか。
そんなことを考えながら、ボクは空を見ていた。もう少しで、例えば車だと2時間もあればユリさんの住んでいた街にたどりつける位置にいる。「永遠」ということを考えていた。そこを通過したとしても時間も距離も、もう変化はしない。永遠、あるいは、不変。
人は死ぬ。そこで時間は停まってしまう。
今回の四国遍路、ユリさんに会うのが楽しみで、そしてそれを目標にもしていた。それがユリさんの墓参りに変わってしまった。ユリさんがボクを四国へ呼び寄せたのかもしれないと思っていた。ボクは歩かなければならなかった。』
ボクは、歩かなければならなかった。ユリさんに逢いに行こうと思った。
14時少し前に、ボクは歩き始めた。地蔵峠を越えて恩山寺を目指した。まだ雨は降っていた。足は相変わらず痛かった。峠の道は急登だった。苦しかった。
でも、緩和ケアでのユリさんの苦しみを想像したら、それはなんでもないことのように思えた。峠を越える間中、涙は流れていた。