依存症

朝、目覚めると良い天気だったので、また寝た。
昼過ぎ、喉が渇いて目が覚めたので、熱燗で飲んだ。
そうしたらまた眠くなったので、また寝た。

腹が減ったので起きて、また飲んだ。そうしたらなんだか哀しくなった。

人という字はふたりの人が支えあっている出来ている、そう金八先生は教えてくれたのだけれど、こうも世の中その頼る人のいない人が多くなっては、人以外に頼らなければ消えてしまう人も多い。例えば酒、例えば薬物、例えばギャンブル・・・。

世の中いろいろな繋がる手段が増えているとしても、ボクたちの孤独化はすすんでいる。老人は孤独死し、中年は依存症になり、若者は罪を犯す。その繋がる手段がボクたちをその依存へと導く。そう、神の啓示は電波によって、一瞬に広範囲に蔓延してボクたちの脳を破壊する。たとえば清原さんの使った薬物は「さみしさ」を紛らわしてくれるという啓示をボクたちは与えられた。

人はあまねく依存症だ。すでに人に依存してしまっている。その人の替りに、例えば、酒を飲む。例えば、シャブを打つ。それだけの話だ。食べることや、自虐的なこと、あるいは死までも、同じことだ。

貧困や格差なんてことは、確かに昔からあった。だけれど、それは孤立化することなくあったのだ。長屋では一升瓶に詰めたお茶と卵焼きにみたてたタクワンで花見をした。
今は、この貧乏長屋では、ひっそりと死をまつ人たちが、これまたひっそりと息をひそめて棲んでいる。八っつあんに、熊さん、横丁のご隠居、おひとよしの甚兵衛さんは消えてしまった。糊屋の婆さんは老人ホームに入って、与太郎は施設の中だ。

ボクたちはすべてを捨てて便利さを選んでしまった。便利さと引換えに人との繋がりや、人への依存を捨ててしまった。こうして24時間誰とも話すことなく生きて行ける便利さのかわりに、酒という友達を得て、あるいはパチンコ屋という喧騒の場を得て、ネットという言葉なき会話が出来るようになった。

ボクたちは、ボクたちが人であるためのいろいろなものを捨て去った。そうして人でありたいという欲望のために、また便利さを獲得する。酒を飲み、狂騒の場に座り、針を入れる。その繰り返しの中で、ボクたちの依存はますます強まる。もっとさらにより依存しなければ生きてゆけないのだ。

セロリとわかめのサラダ

酒を飲め、 こう悲しみの多い人生は、眠るか酔うかして過ごしたほうが良かろう

オマル・ハイヤーム「ルバイヤート」

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