雨は結局降らなかったし、降っている間はちょうど帰りの車のなかで、助手席のボクは眠っていたのだから、雨が降っているのかどうかなんてのは、夢の中の出来事ほどにしか感じなかったんだ。というよりも、あの日一日の出来事が夢の中で起きたことのような感触を残している。

驟雨の続きです。
プラモデルのような街に住んでいた、と思う。くたびれた街は、その表面を塗り替えることで、なんかと崩壊を食い止めていた。ボクが住んでいた頃とほとんど変わらない高さや広がりといった立体的なものは、ただカラーを塗られて、組み立てられた頃の形を残していた。少しだけ後から付け足された長方形のマンションがあった。撤去されたこれまた長方形のデパート、そのポッカリ空いた空間さえも貼り付けれたもののように感じた。
ボクが住んでいた痕跡なんてものは、もうボクの思い出の中にしかなくて、それもずいぶんと色褪せていて、というか、ほとんど脱色している感じで、ただ人の形だけがゴソゴソと動いている、ちょうど影絵のようなものになってしまっている。それでも言葉はまだ当時とほぼ同じ音程や音階、そして耳に届く速度までもが同じで、その音を聞くためにボクは黙り込んでしまっていて、あるいは饒舌になってしまっていて、なんだかわけの分からない、きっと酔ったり醒めたりを繰り返しているような、そんな一日だったんだ。
Gさんの話は前にしたのだけれど、結局火曜日にお見舞いに行った。
驟雨　最後にそのプラモデルのような街を見たのは、Gさんのお母さんが亡くなった年だったから２年ぶりだったのだけれど、それ以上の長さに感じられたし、ボクたちの間に起きた事件なんてのを考えると、やはりその２年というのは「小学校に入学した子供が、この春には３年生になる」という２年よりも、かなり長い時間のように思ったりした。
それほどボクたちの身の上には多くのことが起きていて、その中にはボクが期間工としてトヨタに行ったことや、Gさんが直腸ガンで闘病生活を送っていたことなんかも含まれていて（トヨタに行くことと、ガンの闘病生活を同列に扱うことは出来ないのだけれど）、その幸せではない部分が時間に重石を置いているのかもしれないと思った。
Gさんの身体は時間以上の変化をしていた。それはお腹のところについた人工肛門という新しい自分の一部だけではなくて、それがあるために変わってしまった生活がもたらす変化というもの、例えば髪を手入れしないとかのような、外見の変化にも現れていた。それが良いこととか悪いこととかじゃなくて、きっともうしかたないことで、そんなことよりも、Gさんにとっての生きるということは、毎日その一部であるビニールの袋を取り替えることに集約されているのかもしれないと思ったんだ。
ボクたちが「生きる」ってことを感じるのは、胸の鼓動や呼吸なんて自然に行なわれる身体の動きで、それに繋がる赤い血や白い吐息なんて少し綺麗な色を伴った規則正しい行為なんだろうけれど、Gさんにとっては、もう少し違った色、それはビニール袋に溜まったどす黒い液体の色やにおい、そしてそれを交換するという作業こそが「生きる」ということなんだろうと、ボクは、そう感じたんだ。それは「生きる」というよりも「生かされている」という感覚に近いものだとGさんが言ったような、そんな感覚なのかもしれない。
ボクたちはかなりの酒を飲んだ。昼間から焼酎を一升ほど飲んで、それでもなかなか酔えなかった。Gさんはどれだけ飲んでも酔えないような感じがした。そのことが一番辛いのかもしれないと思った。生きるということは、どこかで酔えると場所と時間を作り出すことだろうと思う。その時空間の創出こそが人生なのかもしれないと、なんとなく考えていた。
あの貼り付けれた空間に、ボクは少しの間行ってみた。それはプラモデルの街を見た時にボクが決めていた、なんていうか過去との再会のための儀式を執り行なう祭壇だったからなんだけれど、GさんやFにはそのことを告げずにボクは「郵便局に行く」と言って、そこでクルクルと回っていたんだ。小雨が降っていた。天気予報では８０％の降水確率だったのだけれど、雨は降らないはずだった。それはFの持っている力、晴れ人間という力を信じていたからなんだ。
そんななんだか分からない力にボクやGさん、もしかしてFも、頼って生きてきたのかもしれない、なんて考えた。クルクル回っていたんだ。「酔ってくれよ」なんて自分の身体に言い聞かせていた。そんな分からない力よりも、ボクたちに必要なのは、やっぱり酔えるという場所と時間だと思っていた。
Gさんも、たぶん、そんな感じで、毎日酒を呷るように飲んでいるのだろうと思った。それは、やはり、今という場所と時間を探す唯一の方法なのだろうと思う。ボクたちと分かれた後にも、Gさんは店に残っていた。そしてやはりあの暗い片隅で飲み続けていたのだろう。ボクたちは「飲みすぎないでくださいよ」なんて分かりきった言葉は使わずに、「また夏に」なんて言って、そのプラモデルのような街を後にしたんだ。
またあの日と同じように、夕立のあとのにおいがした。それは何年もの間に積もった埃のにおいなのかもしれないんだけれど、ボクにはずいぶん懐かしいもののように感じた。