ライン作業のような人生なのだろうか?

一直前の日曜日の夜は早い早い。夕方、少し散歩。本屋とか。ジャスコとか。針と糸を買いたかったから散歩に出たようなもので、それがなかったら引きこもり状態だったかな。また夜かあ。そしてまた月曜日の朝。

立ち止まる交差点の夕暮れ。自分を支える足のなんと心細いことか。向こうの信号の赤。ボクの命を繋ぎとめているのはその赤色の血などではなくて、やはり細い一筋の糸のような希望。限界までに張りつめられている。昨日からの季節はずれの強風にヒュンヒュンヒュンと音をたてている。ちょうどあの風車のように…。それならいっそ切れてしまえばいいものを。みょうに粘っこくて、きっと触るとネバネバネバと身体にからみつく。ちょうどこの街の空気のように…。もうここいらで立ち止まっていたいんだ。もう何も考えることなく座り込みたいんだよ。もうその一筋の糸さえも切って、この手で切ってしまいたいんだよ。働くために生きて生きるために働く、その繰り返し。働くためにこんな時間に眠ろうと苦しみ眠れるために働く、その繰り返し。もうあの食堂の味噌汁の臭いがそこいらに漂っている。そしてあの工場の感覚がちょうど命を繋ぎとめている糸のように身体に絡みつく感じ。全ての感情を切除した電波時計の正確さで繰り返される日々。労働による贖罪。生まれたことへの。明日朝4時になれば、ボクは思い出すんだよ。感情はすでに切除されていて、ただただラインのスピードに合わせて踊っているってことを。それが答えなんだ。え、何の?ボクたちは、もしかしたらなにかを切り取られて生きているってことだ。それはまるで割礼じゃないのか。感じることを許されていないのではないのか。
なんて思う週末だったんだけれど…。人生なんてのは、感じることを制限された、そして行動をも制限された、ライン作業みたいなもんじゃないのか?どうなんだ?

2件のコメント

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    dさん、こんばんは
    そうですねえ、子供の頃から、そういったラインに乗った人生なのかもしれませんね。なんとか良品にしようと手直しをしてきた人生なのかも…。
    すこし違うのは、初めは全員レクサスLS600hlのラインに乗っていて、そこから分かれていって、カローラになる人もいるし…ってことなのかもしれないなあ、なんて考えています。
    でも、それはそれで幸せなのかもしれないし…。
    ボクは朝は鬱で、仕事が終わったら躁状態という感じです。って、鬱の症状ですね。皆同じような感じなのかもしれません、でも、ま、とりあえず満了って目標があるから…。
    えっと、気になさらずに書いてください。

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    こんにちは。
    そうですね、ライン作業のような人生、なんだろうなぁと考える事もありますねぇ。
    私が作業中にふと考えてしまうのは、良品、不可品あって不可品でもギリギリの手直しをして良品にしてしまう(まぁ殆どのラインはそうかも)んですが、やはり手直しの仕様もないいびつなワークも当然あって、そういう鉄クズと化したワークを終業時に4Sしてる時に「俺もおんなじようなもんかぁ」などと切なくなってしまったり。
    結局今後も期間工をやらざるを得なくて、やがて年老いてしんどくなった時にしょぼい貯金で小さな老人施設に入るんだろうな~、と絶望のビジョンが鮮やかに浮かびます(苦笑)
    いつからこうなったんだろなぁと思っても意味無いんで、現実逃避クラスのポジティブ思考で毎日凌いでいく…しかないですねー。鬱よりは躁の方がまだ救われます。周りの空気などを読む余裕無いので…
    土曜日なのに妙な書き込みスミマセン。

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