雪だったね

お昼過ぎのぐるりんバスで田原駅へ。
雨は3時過ぎには雪にかわる。
もうすでにその時点で、ボクはかなり濡れていて、傘を持つ手とか靴下までびしょびしょの足とか、すこし感覚がなくなってしまっていたのだけれど…。
立ち寄ったスーパーで靴用のホッカイロを買ったのだけれど、濡れた靴、靴下には効果がなくてね。そんなこと、たったそれだけのことなんだけれど、なにかもう、どうでも良いような気持ちになったのだよ。絶望感、というか、虚無感、というか…。
陰陰とした冬景色。
鬱々とした心模様。
神社まで行く。
「行く」というよりも、そんな意思を持ってというよりも、ただ、ただ、ただ…。
遠くクルマの音、電車の音、寒声。
へばりついたもの、この魂とか身体とかを、自由にさせないもの、それは、たぶん、執着心というよりも、もうかなり本能の部分だけで、それだけで生きているような、生とか生命とか。
ファインダー越しに見えている、その雪が、本物がどうかなんてことは、もうどうにでもいいことなんだろうと、思っていて、それは、その瞬間から写真という記憶の、あるいは、ボクの生の痕跡になって、いるのだから、逆に、ボクが、その瞬間に生きているとかという問題は、この場合は、どうでもいいことで、ただ、そこに「あった」風景と、そこにいた「ボク」ということだけが、もうフィクションとして、語られはじめる、というのが、実は、真実だということを、ボクも知っている。
そうして、ファインダー越しの物語が、キーボードの脚色をされている、というような二層の記憶を、さらに繰り返す、ということ、なんてことになると、もう、ボクが誰だって、そして生きていようが死んでいようが、どうでも良いことだ、ってことぐらいは、分かっているのだけれど…。
へばりついた、あの壁のヤモリは、屋根裏で冬眠をしていることを、ボクは知っている。そして春になれば、またいつもの場所にいて、ボクにはどうしようもなくて、あの目を気にしながら、小走りにその壁を通り過ぎている。
そんな人生なのだよ。

4件のコメント

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    >通りすがりさんへ
    ああ、そうですねえ、仕事に行くということが、生きていることの一番上位にあって、自然もですけれど、寝るということや食べるということも、仕事をまず考えますよね。
    逆にボクの今は、「もっと降って工場が操業停止にな~れ」なんて思ったり。
    >しおまる@豊橋さんへ
    ああ、3連休ですね。すっかり忘れてました。そっか建国記念日かあ。
    久しぶりの雪景色だったのでは?朝7時前から散歩して、少し違う田原市内を見て来ました。って、ま、それほど積もってなかったし、風が溶かしてしまっていたのですが…。
    凍結していたと思ったのに、みなさんスタッドレスを装着していたような。九州だと、もっと大変なことになっていたと思いますよ。
    >北斗星さんへ
    豊橋のほが、積もっていたように感じましたよ。田原は風があるからかなあ。こんど愛大の近くのラーメン屋さんに行ってみます。
    でも、ビジネスホテルって妙に落ち着きますよね。あの狭さが良いのかなあ。ひとりラブホは広すぎたりするし…。
    やっぱ健康ランドが、個人的には好きかなあ。

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    北海道さ帰りてぇ!(豊橋のビジネスホテルに泊まったバカなワタシ)

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    子供の誕生祝い(なんとバレンタインデー生まれの男子)もあり3連休なので帰ってきました。豊橋の雪は困ります。子供らは雪だるまを作って喜んでいますが、車で移動できなくなったり不都合なことばかりです。雪国の人からしたらたいした雪ではないでしょうが、豊橋住人にとっては”大雪”ですね。

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    北国育ちではない自分にとって、雪が降っても心躍らなくなったのは25歳過ぎた辺りでしょうか。
    通勤するのに電車が普通になっては困る、バスが渋滞に巻き込まれては困る・・・社会人としての義務が雪の楽しさロマンチックさを忘れさせて、ただ厄介なものと感じさせてしまう。
    思えばあの頃から自分は何でも許される自由な時代から義務や拘束の時代に移ったんでしょうね。

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