偏差値教育とライン作業についての一考察

均質性、等質性ということを、言ってみれば美徳とする国民性が大量生産大量消費という近代経済の体質に適合した、ということを少し前の記事で書きました。

そう言えばトヨタの社内報は「creation」だったね
『日本は、アメリカとは逆に、「均質性が異常に高い」という事実を国力の培養基にしてきた。』と内田樹先生がおっしゃられるように、大量生産によるものづくりにおいて最重要とされる商品の均質化が、日本人の「異常に高い」体質と、それを恐らく美徳とする国民性にベストマッチしたのだと思います。

大量生産というの労働システムと対になっているのが大量消費という消費システムなのですが、そう考えると生産現場にだけライン作業があるのではなくて、消費現場にも、ちょうど回転寿司のように、ライン作業が行なわれているのだろうと、考えています。
消費活動の等質化というもので、選択肢はラインに乗っている寿司の種類しかない状態、そしてその限定選択に安心するという心理状態にあるのだと思います。国民の規格化、ユニクロ化なんて呼んでもいいのですが(あるいは既に言われているのかもしれませんが)少し前だと一億総中流意識なんて言われた国民意識が、そのレベル変化をしながらも、ボクたちの中でまだ絶対的な安心感としてあるのだろうと考えています。
その生産消費システムでの等質化要求とともに、もうひとつ重要な行動変化として偏差値化があると思います。
偏差値は「ある特定の母集団の中における本人の学力的な位置を表している」ので、とにかくまずは隣の彼/彼女よりも良い成績であるということに対して最大限の努力をするということが行なわれるのでしょう。
言い換えれば「隣より良ければ」いいのであって、全体像は実につかみにくい度量衡なのでしょう。
その「隣より良ければいい」という思考方法が、大量生産のライン作業に好都合だということです。試験は「タクトタイム」で、その成績基準は「前後工程より早いか遅いか」、あるいは車という性質上「前後」のほかに「左右」という「隣の彼/彼女」がいますから、その彼/彼女よりも良い成績であるということに対して最大限の努力をするということだろうと思います。そしてそのことはもうすでに、ボクたちが経験してきた偏差値教育を踏襲するものであって、それはごく普通のことのように、無意識に行なわれているのでしょう。
なにも去年いた、とか、違う工場の彼/彼女は考えなくていいのですから。
そしてその「偏差値隣の彼/彼女は敵」教育は、日本人の恥の文化とうまく適合して最大の力を発揮するようになったのでしょう。「タクトタイムに遅れるのは恥」とか「作業が出来ないのは恥」なんて心理状態は誰にもあって、そして「隣の彼/彼女には負けたくない」という6歳の時から教育されてきた思考方法は、ライン作業にこれまたベストマッチしたのだと思います。
偏差値は「ある特定の母集団の中における本人の学力的な位置を表しているだけに過ぎ」ないので、その年の受験生の中での学力は値として表現できたとしても、母集団が変化しているという状況下においては、全体的な力の変化が分かり難いということが問題があります。
ですから、ある程度の時期にその母集団を変化させることも重要で、それによる偏差値の底上げとか、全体像の把握が行なわれるのだろうと思います。トヨタにおける社員に期間工という要素を入れることでの母集団のシャッフル化です。
トヨタ社員だけですと、母集団は一定期間変化がありませんので、それはそれで効率化には繋がるのでしょうが、仲間を「敵」とする偏差値ライン作業においては、働き難い職場となりますからね。
と言われてみると、競争するような工程には期間工がいるなあ、なんて思っている人も多いのではないかと…。ま、それは、そんなことよりも、経験的に「嫌な工程」だとGLやTLが知っているからということなのでしょうが。
日本の「均質性が異常に高い」ということや、恥の文化、そして偏差値教育、全てのものが大量生産ライン作業や大量消費に適合したのだろうと考えると、トヨタという企業はまるで日本人そのもののように、なんとなく思えてきて、ボクが「トヨタ…」と書くことは「ボクたちは…」と書いているようなものなのか、なんて思っているのだけれど。
ということで今日はこれまで。

2件のコメント

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    センター入試の頃には、それでも思い出しますよね。
    もう日常化されていて、それが普通なのでしょうか。そしてそれが国の学力を低下させた原因でもあるのでしょうね。
    少子化偏差値教育ですからねえ。

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    「偏差値」 なつかしいなぁ。
    高校3年だった私より1歳年下から「共通一次」なんて試験が導入されました。
    品質管理で統計学をしている工業高校では珍しくない用語が新聞で踊ったことに違和感を感じていました。
    この言葉も採り上げるメディアはもうない。
    日常に組み込まれていることすら認識してないことが恐ろしくもある。

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