派遣切り 宗教は救ってくれますか?
四国を巡礼していると、「お接待」の文化や「無財七施の修行」という教えが、今も存在して実行されていることに驚かされます。昨日のエントリーでも書いたのだけれど、「オムソーリ」というスウェーデンの人たちの考え方は、本当はこの国の人々の中にいろいろな意識として存在していたのだろうと思っています。
施された分は施す、という循環、それも巡礼という四国遍路の意味なのだろうと思ってもいます。
四国の遍路歴史の中では、職業遍路と言われる人たちもいて、多くは病気や障がい者(例えばハンセン氏病の人たち)や失業者、貧困にあえぐ人たちが遍路となり四国にやって来たそうです。そして、そのような人たちは帰ることなく四国を巡り続けたということです。
一笠一杖、白衣を着ていれば、あるいは「遍路です」という自己申請だけで遍路として、なんの疑いもなく受け入れられたのでしょう。そして四国の人たちの宿や食料の支援があって巡礼したのでしょうね。
他の地域にも、例えばボクの故郷にも「お接待」の行事があります。誰にでも食事(赤飯のおにぎり{餅米は入っていない}、煮しめ、かんころ餅という贅沢なものではありませんでしたが)をお接待していました。弘法大師を信仰するという風習はあるのですが、真言宗の檀家はなかったように思います。それに以前も書きましたが、実家では足に障がいのある人を、庵を作って一生面倒を見ていました。そしてその人を「弘法様」と呼んでいました。
宗教は、ボクたちの生活の中にかなり存在していて、救うことも救われることもあったのだろうと思います。何も神社仏閣、僧侶神官という人たちだけが救い主ではなくて、実は神仏が精神に宿っていたのだろうと、そういう精神社会、生活こそが美しいと思っていたのでしょう。
ホームレスの方たちに炊き出しなどを行っている個人の方や団体があります。それでも今回のような事態になると限界があるでしょうね。資金にも限界がありますしね。
困ったら、ボクたちはどこへ行けば良いのでしょうか?市役所ですか?市役所に行けば眠れる場所があるのでしょうか。飢えを凌ぐ食料を提供してくれるのでしょうか?
寺ですか?仏教界はそれほど解放的ではないように感じます。これだけの数の寺があって、例えば難民と言われる人たち、ホームレスと言われる人たちの世話をしているという寺の話を聞かないというのは、少し不思議な気もします。捨て猫は飼っているという話は聞いても。
政党まで持っている創価学会はどうでしょうか?その名前が自治体名にまでなっている天理教は?金光教は?あるいはPL教は?アーレフなんてのは「どうぞどうぞ」と言ってくれそうですか?キリスト教会は?エホバの証人、統一教会は?
日曜日の朝、たまにエホバの人たちが「目ざめよ」を持って訪れます。その冊子だけはいただくようにしています。少し話もします。ついつい「ボクも救ってくれますか」と口から出そうになります。何かにすがりたくなるのは、みんな同じだと思います。その時に、そこに誰がいるか、というだけの話なのかもしれませんね。
ただボクを訪ねて来てくれるのは、エホバの証人だけです。
多くの若者がそういう状態なのかもしれませんね。救いを求めている。そしてもう少しのきっかけで行動する。あとはスイッチというか、救い主が現れるのをまつだけ、なのか、すでにいる救い主の復活をまつのでしょうか・・・。
もうこれ以上は書きませんが、国が、あるいは国民ひとりひとりが救い主にならないと・・・と思っています。歴史は繰り返されていますから。それに、そこに救い主はいますから。
トヨタ社訓には
神仏を尊び・・
家庭的な職場造り・・
ともう忘れましたが、書いてあったと思います。
あまりに効率効率と追求し過ぎて、心は非効率的な物と排除したのでしょうね。
本当の合理性とは理にかなった、リサイクルなどを言うのでしょうけれど。理と合うですからね。