13年忌、そして4年前・・・
着メロは「トゥーランドット」だったりする。
冬季オリンピックの解説者として荒川静香さんが出ている。そういえばもう4年が過ぎたんだね。ちょうど4年前のオリンピックの年、開催される頃に田原工場に赴任した。豊川インターから豊橋市街地を抜け、明海、三河港大橋から見えた夕暮れの蔵王山を今も覚えている。
その風景の痕跡が身体の記憶装置にあって、とても懐かしい感じ(それを人はデジャブとか原風景とか言うのだけれど)がしたのだけれど、赴任した日もそしてそれから2年ほどの間、ボクはそこがボクたちにとって想い出の場所だとは気付かずにいた。
2年ほど過ぎた頃に、その蔵王山の風景を十数年前に見ていたということを思い出すことになる。
老津 太平寺で抹茶を一服
あれから…。
いろいろな「あれから」。
このブログも4年が過ぎた。
田原工場の水曜日
父親の13回忌だった。ボクはその法要にも参加しなかったのだけれど、ここにいてあの頃のことを繰り返し繰り返し思い出していた。ボクにとっては自慢の父だった。いまだに父に問いかけることがある。父が病に倒れ闘病生活をするようになってから、ボクたち親子はずいぶんと仲良くなれたように思う。それまでは少し怖くて、そして少し近寄りがたくて、そして少し遠慮があって、うまく話せないこともあった。エディプス‐コンプレックス(女性の場合はエレクトラ‐コンプレックス)なんてことも関係するなのだろうけれど、それは父子にはよくあることで、特に思春期にいろいろなこと(例えば受験に失敗したり)があった父子にあることなのだろうと思う。
父自身も子供に対して「申し訳ない」という気持ちがあって、子供も親に対して同じ感情を抱く。
ボクも中学生のころ父親を怨んだことがあった。ボクたちは家族旅行をしたことがなかった。それほど両親は忙しく、そして家計は苦しかったのだけれど、そのことで父親と喧嘩したことがあった。「そのこと」で喧嘩をしたのだけれど、ボクのいろいろな不満が「そのこと」に集約されたということだった。いろいろなことがあった中学生だった。高校受験なんてのも失敗して、ボクの不満は父に向かった。喧嘩したのはその中学3年の時の一回だけだった。ボクは分かっていたのだ。誰が悪いのではなくて、何かちょっとしたボタンに掛け違いとか、ちょっとしたタイミングの違いとか、そんなちょっとしたことなんだと。それはもちろんボクに起因することなんだけれど。
ボクにとって自慢の父だった。
それはあの頃も今も変わらない。
子のことを思わない親はいない。
それは間違いないだろう。ただそれをどう受け取るかということなんだと思う。「勉強しろ」という言葉を「うるさい」と思うか「ありがたい」と思うかの違い。「早く帰れ」「残さずに食べろ」なんてことも同じで「うるさい」と思うか「ありがたい」と思うかの違い。他人は気持ちいい言葉しか使わない。気持ちいい言葉というか差障りの無い言葉。そしてそれを優しさと勘違いしたりもする。愛情だと思い違いをすることもある。
・・・・・・。
忙しい日々を送っている。それが良いことなのか悪いことなのか分からないけれど、もう少し余裕があればいいと思う。
もうこんな時間。もう2月も終わりで…。
アンタの生きざまは情けない
思わず、文章読む前にコメントさせて戴きます。
“よかった!!”
1日を過し終えて、帰宅してあなたの考えさせられる、視点の鋭い文章・・・・。
今日1日の自分と照し合わせて振り返ってみる・・・・。
俺は、それが続けていければ、それだけでいいです。
これからも、宜しくお願いします。
管理人さん、元気にしてますか?この様な文章を又読みたいです。ブログ再開を願います。
ところで、期間工物語の続きはどうなったのでしょうか?
おはようございます。
僕の父も5年前の夏、思春期も終わりかけの高校3年の時に他界したのですが、これから色んな話をしたいと思ってた時に、急病で待ったなしでいきなり亡くなってしまいました。
僕も父と一度だけ喧嘩したことがあります。
やはりそれは些細な事がきっかけで、その起因も僕にありました。
父の死という突然の喪失は、遺体から無言で語られた様な、(しっかりせねば)という気持ちを心に諭してくれたと思います。
よい父だったと、死ぬまで忘れません。