老津 太平寺で抹茶を一服
タッチが「メイにお土産買って行かないと」なんて言ったことを憶えていて、それが東名高速の浜名湖サービスエリアだったもので、太平寺の場所を三ケ日とか浜松の山のほうだとばかり思っていたんだ。
その太平寺が豊橋のそれも田原市に近い老津にあったなんてことは、この夏になるまで思いもしなくて、maskalさんから「あれから」なんてメールを頂いて、そうかあれからとても長い時間が過ぎていったのだなあ、なんて懐かしく思っていたら、どうしても太平寺に行きたくなって、それから調べ始めて、どうもネットでは分からなくて、結局、またその頃の仲間にメールして。
そしてとてもあっさりと「豊橋市老津だよ」なんてことが分かった時のボクと言ったら、自分の頭にかけているメガネを探していたような感じの、呆気のとられようというか、唖然としたというかで、いつも電車で見ていたんだなあ、なんて、渥美線老津駅あたりの風景を思い出していた。
去年の秋も、老津駅に降りたのは降りたのだけれど。それも太平寺を目指して。それがあの太平寺だとは思いもしなくて、有名な大銀杏を見に行こうと思って。それでも、なんだか面倒になって、駅から少し歩いて、そしてUターンして田原に戻ってきたんだったっけな。
そんな太平寺とボクだったのだけれど、8月の終わりに行くことが出来ました。
太平寺で、ボクたちは座禅訓練というものをして、それも2泊3日という日程で、とにかく座禅と作務の毎日で、線香が燃え尽きるまでの間を「1本」なんて言って、それを何本か繰り返しては…何かを見させようとしていたのか、それとも、そんな経験をさせたかったのか、とにかくボクたちの意思とは違ったものの中で、ボクたちは研修の日々を過していた。
結跏趺坐、あるいは半跏でも、できなきゃ正座でも胡坐でも良かったのだけれど、身体、特に膝辺りが硬い人ってのは、とても苦痛だったろうし、中には泣いている人もいて、今思えば、そんな人のほうが「何か」を見ることが出来たのかなあ、なんて思っている。
あの頃、自転車に乗っていた高校生はもうお母さんになっていて、「あの時バスの中から見たよ」なんて言うと、「ええ」と驚いたのだけれど、それは本当の話しだし、そのことを憶えているボクってのも、なんだか変なのだけれど、なぜだか高速を降りた街、たぶん豊川あたりから豊橋に向っての道すがら、ボクは、そのことだけがなんだか記憶の全面にあったりしていた。
でも、それは記憶が作り出した幻想なのかもしれないとも思っていて、あの時何人か見た自転車の女子高生のひとりが、太平寺の目の前にいて、なんてことは、どうも怪しいもので、でも、きっとそんな偶然とか運命とか奇跡ってのは必ずあって、ボクがあの時太平寺の山門から見た蔵王山の麓に住んでいて、そして、もう一度太平寺に来てあの時にボクたちが座って、そして寝て、呼吸をした空間に再会するなんてことも、ボクの意図することではなくて、運命とか、あるいは仏の導きだとか、思っている。
奇跡は起こっている、と、ボクは思っている。
住職は、お茶を点ててくれた。あの頃の話を少しした。そしてボクの今のことなんかを少し話した。ボクがこうして戻ってきたこと、それはきっと太平寺との縁もあったのかと思ったりした。今のボクがどんな状況であったとしても、そして住職が言った「なぜ」という答えなんかもなかったとしても、ボクはもう一度太平寺に来る運命だったのだろうし、そして「あれから」ということ、そんな奇跡的な時間が、ボクをあの場所へ運んでくれたのだろうと。
太平寺は、あの頃とほとんど変わっていなくて、ボクたち200人ほどが入浴した風呂は温室みたいになってはいたのだけれど、あの作務の時に作ったものがそのままあったり、煙草を吸った部屋、般若湯を飲んだ部屋なんてのもそのままで、写真を写すボクの手だけがなんだか少しだけ疲れていて、「あのころ」とは随分と違っているように思えた。
ボクは、ふと、自分の写真を写したくなったのだけれど、それはどうも禁じ手のように思えて。それは思い出を上書きするような行為になるのではないかと思ったからなんだけれど、思えばもう一度、もう1回なんて思うことが多くなっているように思えて、それが何になるのだろうという疑問なんてのもあって、人や場所や物や時間ってのは、微妙なバランス感覚で存在しあっているのだろうと考えていたのだ。
「あのころ」には、当たり前のことなんだけれど、もうどう考えたって、戻れないのだし、あのころがボクたちの晴れの日だったのだろうし。そこから、なにかが起こってはいるとしても。
ボクはあの座禅で何を見て、何を感じたのだろうか。それは思い出せないでいる。ただ見えたとしても感じたとしても、今は今なんだから、どうしようもないのだけれど。