期間工物語(2)

毎週毎週数百人規模で期間工を募集していて、そして数百人が集まっていた。まだ期間工が最長十一ヶ月の頃で(その年の5月入社から短期雇用法が適応されて二年十一ヶ月になった)、一年で総入替されていたというのもその募集の多さの理由だったのだろう。多くの期間工たちは半年間という短期の仕事のためにトヨタに来ていたように思ったし、ボクもそうだった。いわゆる出稼ぎ労働者として半年間働いて失業保険を受給するというパターンだ。毎週数百人が愛知県を去ってゆき、そして同じ数が愛知を目指す。愛知県はまるで失業者たちの聖地のようにも感じられた。
全国津々浦々から集まった失業者や出稼ぎ労働者たちは電車やバス、飛行機で豊田市を目指す。多くは名鉄土橋駅から出ている聖心清風寮行きのバスを利用する。聖地に相応しい少し古びた佇まいの駅舎がボクたちの初めて触れるトヨタの街だった。低い土地にある特有の湿っぽさや空気みたいなものは、ボクたちの知っている神聖な場所、例えば小さな神社のようでもあった。
そして会社が用意したバスに乗って寮に行く。受付順に部屋割りが決まる。4.5畳一間に二人があてられる。
ボクは「来たぞ」という高揚した気持ちではなくて、「とうとう来たか」なんていう少し落胆した気持ちで、その部屋に座っていた。
多くの期間工が、きっと同じ気持ちだろうと思う。
そしてまた多くの期間工がそうであるように、ストイックな期間工生活を望んでいたし、その生活のための道具一式はKarrimorの四十リットルのザックひとつだけで、宅配便での荷物もなかったんだ。それは今考えると、その春から十数年前のニューディリー空港に降り立ったボクと、ダブっていたように思う。期間従業員という場所は、ボクにとっては、通り過ぎるだけのところのように感じていたし、目的地は、というか、ボクには帰る場所があったのだし、そこが最終目的地ではないと思っていた。
何かが始まる前の禊、あるいは冬眠の時期、のようなもの、と多くの期間工は考えていたのかもしれない。一生の仕事として「期間」工を選択するわけがないと、ボクはその時は思っていた。
相部屋になった人は神奈川から来たボクよりは若い、それでも30を過ぎていた青年だった。明知工場に行くことになる彼もまた、失業から期間工へという選択をしたうちのひとりだった。「初めてですか」というのが彼の最初の言葉だった。その言葉は「不安です」と同義だった。そしてやはり半年間という通過点にしか過ぎないということだった。その通過点と思うこと、あるいは思い込ませることが、ボクたちの存在を確かめる術のようでもあった。
30代や40代の人たちが期間工に来るということは、そういうことだった。何かを失くして、いや全てを失くしてしまって、そして更に何かを捨ててそこにいたのだし、これからも捨てなければならないものがタップリと目の前にあった。そのことを薄々知っていたし、もう4畳半の狭い部屋に見ず知らずの人2人でいるということも、そのひとつだった。そして夕食のチケットを持って、行列を作って離れた食堂まで行進をしてゆく。そこで「こんなの吉野家で出したら倒産だな」なんて言われる牛丼を食べる。そして満員の風呂に入る。
人がラインに乗って流れる日々の始まりだった。ライン作業をするのではなくて、ラインに乗っているのだ。寥々とした空間。沈黙のバスが象徴しているように、時間はボクたちを有無も言わせず運んび去った。工場というさらに孤独な空間へ。そして時間に合わせて黙々とラインダンスを踊る、ある意味トランス状態の日々が始まるのだった。
ボクたちは、プライドとか人間らしさとか、そういった少し軽めの言葉で表されるものを捨てたのではなくて、もっと巧妙に仕掛けられた罠の中にいて、苦痛や疲労、窮屈や閉塞なんてことを快感にされていたように薄々感じ取っていたのだけれど、それでもボクたちは思い込ませることによって、存在を確かめていた。「半年だけなんだから」と…。
そして全てを捨てたとしても、それぐらいの時間ならば死んだふりも出来るようでもあった。
ひまわり2009(2)

2件のコメント

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    御巣鷹さん、こんばんは。
    そうそう、ボクも最後は田中和風寮でしたよ。ボクは住んでいたので、随分懐かしく感じました。
    夜行バスで着くと、時間が余ってね。早めに田中和風寮について、ロビーで時間を潰していたことを思い出しました。
    派遣や期間などの非正規雇用の問題は、失業者や雇用力というよりも、それ以前の待遇ということを考えないと。
    田中和風寮はそのうち世界遺産に登録されると良いのですけれど…。

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    このエントリーを読んでいたら、1年半前、赴任してから田中和風寮へ初めて行った時のことを鮮明に思い出しました。
    夜行バスで8時間かけて早朝名古屋に着いて、名鉄三河線に乗って土橋に着いた時の事を。
    僕の時はすでに田中和風寮が受け入れ寮だったので、あの2つの白い巨搭を見た時は圧巻しましたね。

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