サンデージャポンを見て考えたこと

人は弱いもんだね。
例えば、このボクもなんだけれど、勇気みたいなものが身体から抜け出してしまったように感じる時がある。セミの脱殻を見て考え込んだりもした。
少し前に「堕落」ということを気安く口に出す人がいた。いかに自分が堕ちたかということを説いていたのだけれど、とても違和感があった。堕落したといいながら、どこかで自分を安全な位置に置くことが出来る人だったからだ。そして堕ちたことを自慢げに話し、それを飯の種にする。
どこにも堕ちてはいないのだ。いや堕ちるという定義が曖昧だし、個人的なことなのかもしれない。だとすると、本人が「堕ちた」と宣言すれば誰がなんと言おうと堕ちたのだろう。悲しみや苦しみというのもそれに似ている。悲しいといえば悲しいのだろうし、そしてそれは本人の判断に正当性を求めるしかない。
「悲しいんだよ」という人に対して「悲しいわけないだろ、それぐらい」と言うようなものなのかもしれない。「堕ちたんだよ」と言うのなら堕ちたのだろう。ただ、人は「父親が死んで悲しい」のと「セミの鳴くのを聞いて悲しい」のでは、ずいぶんと違うと思うことは確かだ。
そういうことなのだ。「どこも雇ってくれなくて借金も増えたので飯場に行って土方をした」のと「給料がよさげで住居飯付きだから飯場に行った」のでは違う。あるいは「病気でどこも雇ってくれなくて」ということだったら、選択肢はなくなるだろう。いや選択するのではなくて、そこに自らの意思ではなくていつの間にかはまりこむのを「堕ちる」と言うのだ。
自らの意思で行うのは冒険、あるいは取材なんてことなのだろう。
タイトルからかけ離れたことを書いたのだけれど、そういうことを考えていた日曜日の朝、サンデージャポンを見た。
マスコミという世界は未だに高見山の頃の角界のようなものかもしれないと思った。才能のある外国人がその実力を発揮する場所が少ない。外国語が堪能なタレントがその外国語能力を使う場所はけっこうあるし、そういう席が山口美江さんや早見優さんのころから用意されているようにも思う。
ところが日本語の出来る外国人というのは、どうなんだろう、その能力はかなり低く見積もられているように思う。英語が出来る日本人よりは、はるかに希少なのだけれど。
いや、デーブ・スペクターさんが出演していて、もっと喋らせれば良いのにと、いつもサンデージャポンを見ると思ったのだ。他の番組ではそれなりに発言する機会があるのだけれど、なぜかサンデージャポンでは少ない。それに遮られることもあって、ファンのひとりとしてボクはどうも腹立たしく思ったりする。中には露骨にあのギャグに嫌な顔をしたりする人もいて、そういうのを見ると、角界のほうが進歩的なのかなあ、なんて考えてしまったのだ。
ま、そういう役割になっていて、それはそれで良いんだよ、ということなんだろうけれど、たまにデーブさんも怪訝そうな顔をして「なんでオレに喋らせないんだよ」みたいな感じになるので、それを見ているととてもかわいそうに思えるのだ。
ま、ファンとしての思い入れみたいなものなんだろうけれど。そして喋らせないということもまたテクニックなのだろうけれど。もっとデーブを、なんて言いたくて、ちょっと書いてみました。
夏は夕暮れの花

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA