期間工物語(1)
あの2004年のことから書こうと思っている。
あの年のこと。
ボクが住んでいたあの街のことと、そして、あのビルでの出来事。この物語を始めるきっかけとなった出来事が起きた日々のこと。ボクがまだいまより3歳若くて、そしてボクがまだ今よりももう少し夢を語れた頃、辛く悲しい思い出の頃。
まだ感触として残っている、あの夏のこと。
肌に少しだけマトワリつくような空気。それが感触として残っていて、ボクを、悲しくさせる。いまでも夢に出てくるTさんと最後に会った日や、Kくんの声を最後に聞いた日、Mさんが泣いていた日々。
あの頃、ボクたちは猛暑といわれた夏をどう越すかということを考える余裕もなく、ベルトコンベアで運ばれるような日々を送っていて、やはりプラスチックのような街で、少し生きることの意味をなくしていて、幸せなんて言葉を使うことを、やっぱり少しだけ怖がっていて、その日の無事終わることを、ひたすら祈るような日々を送っていたんだ。
2004年の春
ボクが期間工として自動車工場の製造ラインで働くようになった2004年の春、トヨタ自動車聖心清風寮の桜はかろうじて残っていて、それだけがボクの気持ちを、ほんの少しだけ優しくさせた。
その春、ボクそれまで勤めていた会社を辞めて気持ちの整理もつかないまま、住んでいた街を離れて、それから就職活動をすることもなく、まるで予め決まっていたかのように期間工の面接を受けた。
面接はいたって簡単で、四肢に異常がないか、指は5本あるか、というチェック程度のものと、刺青はあるか、借金はあるか、という質問だった。当時は自動車バブルの黎明期、愛知県の求人倍率は2倍なんていう製造業では特に人手不足が言われていた。
そういうこともあって、ほぼ全員が採用されるという噂が大企業トヨタ自動車でさえ言われていた。「刺青がないこと」だけが条件ではあったが。そしてその通りボクも無事採用されて、3週間後には夜行バスに乗って名古屋駅に向かった。
2004年の田中和風寮での日々を期間工物語として少しずつ書いています。
ELFさん、こんにちは。
2年ぶり…。おひさしぶりですね。昔、コメントしてくれていた人のことを思い出したりはしますよ。
ありがとうございます。
「田中和風寮」はちゃんと終わらなきゃなあ、なんて思っていて。そしてそれが出発点ですから。
あの年は堤で人が死んだり、ま、いろいろありましたね。暑かったからかもしれませんし、あの年から少しずつ変わって行ったようにも思います。
そうですか、愛知県内とかにお住まいなのでしょうか。田原はどんぶり街道なんてのもやっているようで、それは食べたいと思っているのですけれど。
えっと、またコメントしてください。
久々の2004年の出来事ですね!「待ってました!」って感じです。
ちょうど先日『田中和風寮』の思い出を読み返したところでした。良い記事ですよね。
私も2004年は期間工元年+猛暑で、本当に辛かったので共感が持てます。
あの年は本当、色々ありましたよね。
さて、今年は二度田原に行っていますが(大あさり・イチゴ・メロン目当てで)、2年ぶりに見た田原仮設寮の姿には驚きました。
私が住んでいた当時の活気はなく、本当に無人で廃屋のような雰囲気でした。あの頃だと想像が付かないくらい周囲は無人で静かでした。
別の場所で見た、吉胡寮・滝頭寮行きっぽい、バス2両は満員だったので少し安心しました。
笠山さんが気になっている(?)ミマスは、2006年当時に比べたら品数は減りましたが、普通に営業していました。
今でも田原の頃の仲間とは、年に1,2回は飲みや観光に行ったりしています。良い仲間と巡り会えました。
以上、2年ぶりのコメントでした!