公衆電話と五月の枯葉
まだ公衆電話を必要としていた頃には、こんなアパート界隈には10分も歩けば必ず1台はあって、夜にもなると誰かがその電話にしがみついていた。
並ぶのも悪い気がして、部屋に戻って10分ぐらいして出直しても、まだ会話中なんてことも度々あったとしても、それはまた自分の姿でもあったので、誰も咎めるなんてことをしなくて、礼儀正しく終わるのを待っていた、そんな時代もあった。
Yさんと不埒な恋に落ちていた頃にもボクは坂道を下ったところにあった公衆電話に行くことが日課になっていた。
10分ぐらいの会話のために小一時間使っていた。
今考えると、恐ろしく効率の悪い生き方をしていた。
それでもその瞬間をこうして思い出せるのだから、一回の電話がずいぶんと質量を持っていた時代だった。
公衆電話でボクたちは別れを告げた。
それはあらかじめ分かっていたことで、「別れ」というよりも「旅立ち」と言った方がいいような、そんな別れだった。
その後ボクは一度だけYさんにその公衆電話から電話をかけた。「気をつけて帰って来てね」というのが彼女の最後の言葉だった。
もう20年以上前の話だ。
ホッチキスと初めて話した寮ロビーの公衆電話、名古屋駅の公衆電話、そんなに遠くない過去の出来事の中にも存在する。
そしてやっぱりずいぶんと質量を持っている。「会話×場所」という奥行きを持って記憶している。
田中和風寮前の公衆電話だって同じで、あの2004年のこんな蒸し暑いTさんが失踪した夜、ボクはそこで思いつくまま誰とはなく電話をした。
ボクは不安の中にあった。
そしてボクは何かに繋がっていたかった。
そうしなければボクの何かが失われそうに思えた。
公衆電話のガラスに写しだされるボク自身の姿にボクは安心した。
田中和風寮は撤去された。でもあの電話ボックスは残っていた。
何百人という期間従業員が利用しただろうあの電話ボックスはそのまま残されていた。
なんだかとても不思議に思えた。捨て猫のような感じがした。鳴き声が聞こえてきそうにも思えた。
季節外れの枯葉がそこいらに散らばっていた。
襖の向こうからTさんのひとり言やMさんのすすり泣き、冬ソナのテーマソングが聞こえてきた。
明け方にひっそりと辞めていったKくんの足音が聞こえてきた。
あの年の5月もそこいらに散らばっていた。
田中和風寮前の公衆電話
哀しみを散り落としての若葉かな(笠山)