さよなら田中和風寮
10年一昔と言うけれど、想い出なんてのはそれほどピンボケもしていなくて、周辺までシッカリと記憶の中に写し込まれていたりする。
当たり前のことなんだけれど、ちょうどボクは今よりも10歳若くて、夢とか希望なんて、いま考えると少しシラケるものが、未来とボクとをシッカリと繋ぎとめていたんだ。あの頃のボクは根拠のない楽観主義者で、というか、まだボクの中に自信というものがあって、まだボクがこの社会という集団に必要にされているなんて勘違いいしていた頃、だった。
人の存在ってのは、それほど重要でもないだろうと思う。1円ってのは1万個集まれば1万円だけれど、ひとつだけではどうしようもない、それと同じなんだ。
ほとんどの人は1円で人生を終わる。10円とか100円に見える時があったとしても、それは幻想でしかない。1円がなければ困る、けれどもなければなくてもすむというだけの存在でしかないのだ。
ボクがそのことをハッキリと認識したのは、ラインダンスを踊るようになってからだ。トヨタという自動車生産ラインで規則正しいダンスを踊るようになって、ボクはそのロボット、というか、ボクでなければいけないなんていう自負というか人間性というかそういうものとはほど遠い、代替のきく、誰でもそこにいればいいようなルーチンをするようになってから、ボクはボクが1円であるということを考えるようになった。
ほとんどの人は1円なのだ。そしてそのことを、人間性とはほど遠い作業に対して自負とか誇りなんてものを、そのほとんどの人が持っている、ということに気づいた時に、不気味な、途方もなく不健全な行為を嬉々として行っていることに対して、ボクはある種の嫌悪感を抱くようになった。
「絶望工場」と誰かが表現したのは、個々の人生において、自動車生産ラインに関わる人たちや期間工、それぞれが、そのそれぞれの人生が絶望の深淵の中にある、ということではなくて、その行為(生産ラインでラインダンスを踊ること)がこの国の経済の支柱になるということがこの国の人々にとって絶望的だと言っているのだ。
げんにそういう事態になっている。この国の経済は、すなわち国家は、自動車という産業に支えられている。がしかし、その産業が原因で非正規という貧困層が表出し固定化し、若者は未来に対してなんの希望も夢も持てないようになってしまった。人口は減少の一途を辿る。結婚さえ出来ない、ボクのように将来に、そしてまたその(子どもの)将来にまで絶望してしまっては、結婚なんてのは恐怖そのものなのだ。結婚し子供をつくり、その我が子を地獄に送り込む、そんなことを平気でするのは変態だけだ。
いや、ボクは10年前に生産ラインでダンスを踊る若者を、そのことについて何の疑問も持ち得なく、なお嬉々として踊る若者を見てから、この国の終焉を思ったのだ。大量生産大量消費というシステムが人類というシステムをまでも抹殺してしまっては絶望でしかない。
その象徴がトヨタ自動車の生産システムなのだ。そのシステムにこの国が依っているということが絶望的なのだ。
そのひとつの象徴でもある要塞、田中和風寮が取り壊された。ボクやTさんやMさんが住んだ田中和風寮がなくなった。ボクたちのあの頃の場所がなくなった。まだ夢や希望があった頃、お昼に「冬のソナタ」が放映されていた頃、ボクが今より10歳若かった頃…。
その場所にボクは7年ぶりに立っていた。あの高い建物がなくなった跡は、これほど広かったのかというぐらいに広かったし、ぽっかりと空いた風景はテレビで見た戦争の焼け跡のようでもあった。そうだ焼け跡なのだ。なにもかもが綺麗サッパリと過去へ葬り去れててしまった。
その焼け跡からはきっとまた何かがうまれるのだろう。というか、ボクたちは転換期にきていて、もう現代の産業モデルから脱け出して、たとえばボクという人間性が尊重される社会構造に変わるべきなのだ。生産者とか消費者なんて良くわからない集団からの脱却期にきていて、ボクたちは「なぜ造るのか」「なぜ買うのか」ということを個人のレベルで考える消費活動に変わるべきなのだ。
そうすれば脱原発も難しくはない。そうすれば環境も破壊されずにすむ。そうすれば夢も希望もある将来を想像することができる。そうすることが子供たちへのなによりもの贈り物になるはずなのだ。
何も考えずに踊ること。ラインダンスもだけれど、消費するというダンスも同じで、ボクたちは絶望の淵へと知らず知らずにステップを踏んでいる、ということなのだ。
7年ぶり、雨が降り出しそうな田中和風寮で、ボクはそんなことを考えていたんだ。さよなら田中和風寮。
さよなら田中和風寮 | トヨタ期間従業員に行こう
そう言えば一年前に同じタイトルで書いてたね。
期間工の健康診断時は、田中和風寮だったと思うのですが
7年前だと、ちょうど期間工として赴任した時です。
時の経つのは早いですねぇ。