米の問題(除くFAT)

米が届きました。
ありがとうございます。
今○さんから届きました。ちょうど買わなきゃなあ、なんて思っていた頃だったので、更にうれしかったです。食べ物があると元気になりますね。お皿に盛って飾りました。フラワーアートみたいにライスアートとかないのかなあ、なんて思ったりもしました。米を触っていると豊かな気持ちになったり…。なんてのはちょっと変態なのかもしれませんね。でも、テーブル(コタツだけれど)の上に置くと、豊かさと涼を感じさせますね。「豊かさと、涼しさと、力強さと~♪」なんて篠原涼子さんの歌を思いだして笑ってみました。
一粒一粒味わって、なんてことを言いますよね。それとか一粒も残さずに、とか。何万粒、あるいは何十万粒のひとつひとつを感じることが出来るか、なんて日本人の情緒、精神風土なんてのは、きっと米食によって生まれ育まれたのだろうと、米を飾って見つめていると感じます。
食文化と精神風土、なんてのは既に研究されているのでしょうが、その食文化の最小単位と文化なんてことはどうなんだろうか、なんて考えています。粉して食べる文化圏と、米食のように粒のまま食べる文化圏では、なにか決定的に違う精神構造があったりしないかなあ、なんて思いました。
パスタとかの麺食文化、チャパティとかインジェラのようにクレープ状に焼く文化、パン文化、ウガリとかのように粉練り文化、米飯のように種子脱穀そのまま文化、なんてのに分けて考えると面白いと思うのですけれど。食文化は奥深いですよね。餅なんてのは、よく考えたものだと思いますし。
米をこれだけ眺めたのも初めてです。ほとんどの人は、たぶん、米を手にとって、そして眺めて「良い米だね」なんて言わないのでしょうね。炊いた後のご飯については、いろいろな形容詞を当てはめて言うのですけれど。主食だと言っても、ボクたちはそれほど米を見たこともないし、ましてそのことについて考えてこともないのかもしれませんね。だいたい買う時に中身を見て判断する人なんてほとんどいないですし。銘柄は見たとしても。
そんなことを考えていると、毎日食べているとはいえ、きっと銘柄が変わってもほとんど気が付かない人が多くて、例えばカリフォルニア米になったとしても、「めしうま」なんて言う人ばかりなんでしょうね。知っていそうで、ほとんど知らないのも米なのかもしれないし、もしかしたら生米を触ったことがないという人もいるかもしれませんね。
ご飯を残すと「お百姓さんが…」と怒られたものですが、きっとそういうもので、作った人の悲しみとか苦しみとか、あるいは喜びとかをイメージする力というのも、食というものかもしれませんね。パスタやパン文化圏内の人は、さらに複雑なイマジネーション力、そんなものを0歳から鍛えられているのかもしれないと思っています。それは教えてもらうとかではなくて、視覚味覚などの感覚によって人の本能としての想像力が揺さぶられるということなのですけれど。
複雑が良いと言っているのではなくて、日本人の原型脱穀そのまま炊飯文化、というのは、直情的、というか、感受性が強い、というか、情緒的というか、そういうストレートな感情表現に繋がっているのではないかと、ふと思ったのですけれど。
ということで、いつも気に留めてくれてありがとうございます。
良いことが続いたので、また頑張ろうと思いました…。
今井米
いまいまい(なんて書くと上から読んでも下から読んでも、だなあ…すごい)

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