どうしてペットを飼うのですか?

「飼う」なんて言うと、なにか人の傲慢さみたいなものを感じてしまう。「一緒に住む」とか「一緒に暮らす」なんて言ったほうが良いのではないかと思うのだけれど、飼われるほうの立場に立って考えてみると「飼う」ということのほうがきっと気楽で良いのかなあ、なんて思ったりもする。

「飼われたい」と思ったあの頃のボクは、「一緒に住む」とか「暮らす」なんてちょっと緊張状態にある平等な関係よりは「飼う」「飼われる」という上下関係の気楽さみたいなものを望んでいた、そんなふしがある。

飼う? | 道中の点検

なんてことを書いていた頃、ボクは真面目に飼われたいと思っていたんだし、きっと「じゃあ月に3万円出すから庭の小屋に寝泊まりしてね」なんて言われたらそうしていたに決まっている。そして今頃は性交雨続、あいや、晴耕雨続な日々を送っていたに違いない。

「ペットは癒されるけれどお前はいやしそうだなあ」なんて言われそうだけれど。
月3万円あればなんとか生きる楽しみみたいなものもあるだろうし。

なんていやしい考えを持っていたボクは今頃きっと捨てられて野良犬、いや野良人になっていた確率のほうが高いに決まっている。

飼われるのは良いとしても、飼うってことはどうも苦手なのだ。というかそういう甲斐性もないのだから、だいたいそんなことも思わない。動物と一緒暮らすなんてことも出来ないし、まして人と一緒に暮らすなんてなおさらなのだ。せいぜい植物を植えて「元気で育ってるなあ」なんて観察するぐらいが精いっぱいなのだ。

飼われるほうは、ボクのように「遊んで暮らした」なんて不純な目的があって「飼われたい」と思うだろうけれど、飼うほうは、例えば「遊び」の時間を割いて、そうして食費や予防注射なんて経費をかけて、ペットになにを求めるのだろうか?

癒し、なんてことを言う人も多い。確かに動物セラピーなんてものもあって、人は動物と接すると優しくなれる、なんてことも言われている。それに散歩に行くことによって生活習慣病を予防したり改善することが出来たりなんて二次効果も期待できる。

なんて書いてやっぱり「いやしさ」みたいなことを感じてしまう。だってそういったことって飼う方の都合なんだし、犬や猫なんてのが「遊んで暮らす」という目的で飼われたいなんて考えているはずもないし。そうなると飼う飼われるという人対動物の関係がそもそも成立しないわけで、常に人の都合だけで「飼われている」のだろうし。いや「飼われている」という飼われている側の意識はなくて、ただ「飼う」という独善性だけが存在しているだけなのかもしれない、そう思うのだ。

だから必要としなくなったら捨てるのだ。女房子供も捨てる人がいるのだから、ペットとして飼っていた動物を捨てることになんの躊躇いもない。それが悪いことだという認識さえない。だって道具なんだから。

小型犬:生きたまま放置 栃木と群馬で29匹保護 – 毎日新聞

栃木、群馬両県で今春から夏にかけ、生きたまま放置された小型犬計29匹が保護されていたことが10日、分かった。栃木県内では10月末以降、2カ所で計71匹の小型犬の死骸が発見される事件が起きており、関係者は「悪質な繁殖業者の仕業の可能性がある。動物の命を粗末に扱うのはやめて」と訴えている。

嫌な事件が起きている。ペットとして「飼う」ということ自体「粗末に扱」っているのではないかと思ったりもする。こうしたことを防ぐ唯一の方法は、飼うなんてことを止めることなのだ。それも買って飼うということ。だいたい「飼う」もだけれど「買う」ってこともなにか間違っているのだ。

命を買ってそれを飼うってことが正しいわけがない、そう思うのだ。でも、まあ、ボクたち人間も資本主義なんてシステムの中では買われて飼われているひとつの歯車でしかない。生産こそすべてなのだ。そして産まなくなったら、捨てられ放置されるのだけれど…。

愛犬ロミの生涯 | 道中の点検

二月堂

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