長屋の春
この世の利便性なんてものは、人の不幸の上に存在する。
大晦日にスーパーやコンビニが営業していることや、元旦の朝に年賀状が届く必要性なんてものはないと思うのだが・・・。あるいは初売りが新年2日目に行われ福袋なんてものを忙しく買い求めるなんてことが、人生にそれほど重要なことでもないように思うのだけれど・・・。
幸せの裏側にある不幸、ボクたちは人の不幸を食っては喜んでいる。夢を喰うのを獏という、他人の不幸を喰うのを人という、飯のかわりに酒を飲む、そんな自分を馬鹿という。
長屋の春
新年だ。
目出度さも人任せなり旅の春 (井上井月 井上井月顕彰会)
今年は目出度くも新年を職場で迎えた。そうして元旦、2日と仕事で、ありがたい。
タクシーの車中で迎える新年、赤信号が少しだけ滲む。タクシー界隈、ボクたちの住む長屋では、もう盆とか暮れなんてものとはすっかりと縁切りをした人も多くて、ボクもそのひとりなんだけれど、疲弊した精神は世俗的なものを遠ざけるようになって、例えば初日の出なんてものも、夜勤の終わりのシグナルぐらいにしか感じなくなっていて、いや逆に無関係に生きることが、己の生命を実感できる唯一の証のようで、感情を押し殺す癖がついてしまっている。
そうしなければ、不幸を感じてしまう。
鈍る感覚
不幸に鈍感になるってことは、そのまま幸福にも鈍感になるってことで、やはりボクたち長屋の住人は、なんとなく、「春」なんて目出度きことの祝詞なんてものよりは、「お疲れさま」なんて呪文のほうが、似合っているのだけれど、かといって人を恨むのでも憎むのでもなくて、己の哀しみだけを、ちょうど手を合わせて己の身体の体温を感じるように幸せなんてことを感じることが、これまた生命を実感できる証だったりするのだ。
いや、生きているという実感は、酔っている時にだけ現出する。ちょうど自傷行為に似ている。依存症ではない、そう思っているだけで、ボクが生きていると感じる時は、ただただ「こいつはうめえや」と言っている時で、「ありがとうございます」なんて接遇のコトバは「くたばっちまえ」と同義語になってしまっている。
長屋の春。
目出度きものは、またこうして飲めることだけで、そうして眠る場所があることで、あとは、また仕事が終わって「こいつはうめえや」と独りごちることが、そして酔って寝ることと、その残響の中で生きることなのだ。
新年だ。ここいらいっぱいにボクの目出度さが溢れている。
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あけましておめでとうございます。
>テルさんへ
う~ん、知らず知らずにその便利さになれてしまっていますよね。まあ、コンビニは711、23時ぐらいまでで良いような気もしますが、その時間に勤務って人も多いので・・・。
タクシーも23時までとか・・・、そうなると帰宅難民が出るか。難しいく悩ましい問題ですね。
>さといもさんへ
そうですね。子供の頃はみんな休んでいたような。4日が初売り、ではなかったですかねえ。
年賀状なんてのは、3日とか4日の配達で良いのではないかと思うんですが。まあ、アルバイトに配達させて社員は休んでいるのでしょうけれど・・・。
あけましておめでとうございます。
小売業界は1月1日くらい店閉めておいてもいいのではないかと前々から思っています。
昔はデパートやスーパーなどに週一度定休日があったりしたものですがそれが徐々に減り店によっては年中無休。
近年一部では定休日の復活や営業時間の短縮といった動きがありますが基本賛成。実際場所によっては遅い時間なんて客少ないし色々と無駄だと思ったりします。
幸せと不幸は価値観によるところが大きいですがあまりにも自分は幸せ、もしくは不幸と強調すると反感食らったり嫌味に取られてりするのでそこは気をつけています。
金持ちが幸せで貧乏は不幸などと決め付けてしまうのもどうかと思ったり。
本年もよろしくお願いします。
田原笠山さん、明けましておめでとうございます。昨年はコメントの御返信ありがとうございます。今年もよろしくお願い致します。
便利になっていけばいくほど人の心は廃れていきやすいのかなあと思います。そしてそんな便利さの中にどっぷりつかっていた自分自身もです。
私は以前、神奈川県に住んでいた事があるのですが都会は愛知県の地方都市よりも遥かに便利で、やる事なす事が楽でした。でもその分あくせくしてあのピリピリしているあの雰囲気で心が休まらなくて…
新年から仕事なのですね。お世話樣です。これから2月に向けて一番寒くなっていきますのでお気をつけて下さい。