大須演芸場再開で考えたこと

「金出して笑うんだったら家に帰って女房に脇をくすぐってもらう」
落語のケチ噺のマクラですが、わざわざ家に帰って女房に脇をくすぐってもらわなくても、コンビニで漫画を立ち読みするとかテレビでお笑いを観るとか、落語もYouTubeで聴くなんてこともできるわけで、昔と違って現在は笑いがほぼ無料で、そして簡単に手に入る。
貧困化によって非婚率が高くなっていて、くすぐってもらう女房もいないのだから、笑いの孤立化、笑いの引きこもり化、そんなものが進んできていて、さらに寄席に行くことも少なくなっている。若者の多くは寄席というものさえも知らない人が多い。
ケチは寄席にいかないのだから、愛知のようにトヨタ式精神メカニズムが浸透している地域ではそんなムダな時間の使い方はしなくて、落語は車の中で聞くもの、なんて思っている人が多いのかもしれない。
少し前の中日新聞に「新生大須演芸場の展望」「名古屋流寄席文化を」なんて記事が出ていて、(1)東京や大阪に比べ、圧倒的に観客が少ない、(2)客を呼べる落語家が多く所属する団体もない、(3)客も芸人も少なければ演芸場が存在できる前提がない、ということが名古屋の寄席、大須演芸場の問題だということを説いていた。
毎年開催されていた「大須で江戸落語」に何度か足を運んだことがあるのだけれど、整理券が出されるほどの活況だった。そんなことを考えると、観客が少ないというか、やはり客を呼べる落語家が出演していない、ということが原因だろうと思う。(いや、ブラック師匠は面白いのだけど)
満席になる、なんてことは東京の寄席でもそれほどあるわけではないだろうけれど、とにかく365日毎日昼夜あって、ずらりと有名な落語家が出演している状況だと、それに半日あるいは昼夜入替なしで何時間も居続けられて3000円でお釣りがくるのだから、お得感がとってもある。それに飲み食い眠る自由だし。
東京の寄席は、紅白歌合戦を毎日やっているようなものだ。(福山雅治やSMAPや石川さゆりが毎日出演しているようなものだ)
それが大須にはない。言い方は悪いんだけれど、大須ではのど自慢を毎日やっているようなものだ。同じ噺を違う噺家が演るのが落語なんだけれど(カバー曲みたいなもんか)、噺だけを聴くのならばCDで十分だ。志ん生師匠や円生師匠、志ん朝師匠や志の輔師匠といった名人の落語がいつでも聞けるのに、わざわざ・・・。
それに笑うだけならば、なにも落語でなくてもいい。若い人は漫才なんかのほうが笑えるだろうし、漫画のほうがわかりやすいのに、わざわざ・・・。
「わざわざ」行くためには、そこになにかがなければならない。ただの笑い、ではない何かがなければ、人は動かない。笑いだけでは若者は動かない。ボクたちオジサンはもっと動かない。少なくてもCDに勝てるだけのなにかがなければ、動かない。のど自慢は地元に来た時にしか、ゲスト次第でしか、行くことがない。芸とはそういうものだ。大学の落研の落語会に3000円払う人はいない。タダでも行かない。そんなもんだ。
じゃあ、どうするのかというと、笑いを捨てろ、ということだ。確かに「落語=笑い」なのだけれど、落語の本質はその笑いの中に涙があるということだ。妬みや僻みなどの人の負の感情、人が底に落ちる物語、それが落語の本質だと思う。それを談志師匠は「業の肯定」なんて表現したのだ。
笑うだけならば「脇をくすぐってもら」ってもできる。笑うだけなら通帳みればできる、なんて土地柄なのだ。ケチ、もとい、合理主義者の多い名古屋なのだから、笑うだけではなくて泣いたり叫んだりなんてお得感がなければ、ムダな時間を過ごすわけがないのだ。
だから大須演芸場に未来があるとしたら、「芸どころ名古屋」を捨てて「業どころ名古屋」にしよう、なのだ。「泣きの大須」なんて言われるようになったら、きっともっと多くの人が来るに違いない。その時には「そうだ、大須に泣きに行こう」なんて名古屋交通局のキャッチが入るはずだ。きっと。
さてと、寝るか。
大須演芸場 大須で江戸落語

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