タクシーの日に・・・

8月5日は「タクシーの日」だ。大正元年(1912年)のその日に有楽町マリオンで「タクシー自動車株式会社」が、6台のT型フォードにメーターを装備して営業を開始したのが、日本のタクシーのはじまりだそうだ。

100年を超す歴史と伝統があるにもかかわらず、その地位は高くなく、ボクたちの賃金も生活レベルも高くない。ワーキングプアと呼ばれる人たちが多いのもこの業界だ。

人は移動しなければならない。食料を獲得するためであったり、種の保存のためであったりと、移動すること、それは生命と密接に関わりあっている。文明が発達し科学が進歩した現在においても同じことである。人は移動しなければ生きてゆけないのだ。

タクシーの起源もそこにあり、公共性を問われるのは、その「生命」に関わっているからだ。そう思う。人が社会生活を営み、生存してゆくためにタクシーが存在する、ということなのだ。

人口の高齢化や過疎化、都市計画の失敗などから交通弱者が問題視されるようになって久しい。買い物や病院に行くことが困難な、そんな交通弱者を救済する理由はなにも人道的な意味だけではなく、そのような人々が移動できないために被る社会的損失を少なくするということもある。というよりも、むしろ後者の方に重大な意義があるように思う。

動けない/動かないでいることで、病気が発症したり悪化し医療費が増える。そうして移動手段がないために社会参加できない。医療費は増えて、税収は落ち込む、ということだ。病院に行くと言うことだけではなくて、ショッピングや外食、旅行、あるいは労働するためには移動しなければならない。

自らの足だけでは移動することができないほど街はは拡がってしまってた。近所の医者も八百屋も魚屋も雑貨屋もなくなってしまっている。それだけではなく家族も親戚もいない。なによりもコミュニティ自体がなくなってしまっている。

人はさらに移動しなければならなくなっている。文明が、科学が、その距離を長くしてしまったのだ。不便になったボクたちの生活は、文明や科学、資本主義やコストなんて思想の対岸にあるもの、例えば人の感情で、情緒みたいなもので、それを克服しなければならない時代が来た。そう思うのだ。

移動(モビリティ)と利益との別離。人が生存するために、人が普通に生きるためには移動が不可欠というならば、タクシーを含めてすべての交通機関の枠組みを変える/戻す必要があるのではないかと思う。もちろん「戻す」とは国営化するということなのだけれど、それが出来ないとなれば、交通弱者を生活弱者(タクシー運転手)が救うという歪な仕組みをなくすように、社会全体で考えなければならないと思う。

国や社会ができないとすれば、ボクたちは、例えば交通弱者救済のためのボランティアとして、そうした自覚をということではなくて、実際にボランティアとして活動する時代になったのではないかと、101回目のタクシー記念日に、思っているのだ。

いや、そう思わなければ、やってられない、とボクは思っているのだ。だってどこの自治体も「タクシー助成券」や「デマンドタクシー」なんてもので次々と弱者のために補助はするけれど、ボクたち格差社会の底の辺りで生きている弱者に対してはなんにもしてくれはしないのだから。それは逆差別みたいに、ボクたちは社会全体から弱い者いじめをされているような、被害者意識や非差別意識を感じている。そんな意識でうまく行くわけがないので、このさい開き直ってボランティア活動なんだよ、と、そう思わなければやってられない、そう、すこし斜めに考えているのだ。

まあ、いろいろ考えて、いろいろやるのは良いのだけれど、ボクたちもシアワセになれるような、そんな仕組みを考えて欲しいと思っているのだ。弱者救済が新たな弱者をつくっている、なんてことになっているように思う。もっとボクたちにも「愛を」なのだ。だって101回目なんだし・・・。ねえ。

タクシー運転手にアンケート

タクシー運転手7人に聞いた。
「今の生活に満足していますか?」

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