迷故三界城 迷うが故に人なり

「迷故三界城」は、四国遍路の菅笠に書かれる四句(悟故十方空、本来無東西、何処有南北)のひとつ。心や身体を開放するためには迷いを捨てよ、と解釈できる。

しかし、ボクたちは迷いの中にある。いや、迷うからこそ人なのかもしれない…。

歳を重ねればもう少しその迷いから解放されると思っていた。そして、もう少し理性的に生きられるのではないかと思っていた。迷故三界城、迷うが故に高い壁に囲まれてしまう。迷路の中でもがき苦しむ。

人は人の中で人になる。

寺の坊主が悟ったふうに見えるのは、あれは厳しい修行の結果というよりは、寺という人のいない世界にいるからだ。坊主が100人もいればやはり迷う。人は人の中で狂人になる。

人が憎しみ合うのは人が基本的に利己的な生き物だからだ。その生き方を戒めるために宗教があり、道徳や倫理なんてものが存在する。無償の愛なんていうものは、もともと人には存在しないものだからコトバにより(聖書とかコーランとかお経とか)存在せしめる観念なのだ。

それはそれで正しい。人はほっとけば憎しみ合うのだから、神や仏の声を借りて愛の大切さを説くことが必要になってくる。宗教の必要性もそこにある。人は人の中で幸福になる。

迷故三界城 – Google 検索

迷故三界城

人の中にいればどうしても迷ってしまう。人はそういうふうに出来ている。ただ、もう少し赦し合えたらと思うし、もう少し理性的に生きられればと思うのだ。

なんてことを若い人に話した。ボクも迷いの中にあるのだけれど。それにボクもまだ理性的には生きられていないのだけれど。いや、結局、人の中にいる限り迷故三界城なんだろうと思う。だから若者よ(ついでに中年も)大いに迷え、なのだ。

迷故三界城

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