出家

実は出家したかった時期があった。20歳になったばかりの頃、例えばGさんと出会って臨済宗のお寺の人と少し話をするようになったり、仏山寺の和尚と知り合いになったりして、なんとなく「神ってる(仏ってる、か?)」時期があった。というよりも、それほど苦悩の時期があった。

インドに行ったのもそういった流れだった。ガンガーで沐浴してサドゥと話をしたり、オレンジの服を着て空中浮遊を試みたり、真面目に修行僧になろうと思った頃もあったのだけれど、結局、インドでは身ぐるみはがされ、「空」になったのは心ではなく財布で、空中浮遊できることもなく這う這うの体でたどり着いたのは悟りの世界ではなくて、成田空港だった。

ボクのように出家したい、とか、解脱したい、とか、悟りたい、なんて人は多いと思う。それほどこの世界は煩悩が満ち満ちている。なんとこの世の悩み苦しみの多いことか。

清水富美加さんの出家のニュースを聞いて、なんとなくうらやましく思った。

ボクたち悩み苦しんでいる。こうして暮らすこと自体、こうして働くこと自体、要するに生きることは悩み苦しむことなのだ。だから新しい生活の場や職場を求めて出家する。悩みや苦しみの原因は、学校や職場、社会や集団なのだ。

救われる場所がないから、人は悩み苦しみ、自らの命を捨てる。

これまで、いったい宗教は何をしていたのだろうか?これほどいじめやハラスメント、過労死や自死なんてことが問題になり、年間数万人の人たちが自死し殺されているとしても、救い主は現れなかった。

悩み苦しんでいる人の、救済の場所が見つからない。そこいらに神社仏閣があるとしても、気取った神はボクたちに背を向けていた。格式ばった仏陀はボクたちには敷居が高すぎた。こじゃれた新興宗教はボクたちには難しすぎた。

救い主は現れなかった。国家も法も救ってはくれない。それどころか非正規のままで、努力しても報われず、格差は拡がるばかりだ。ボクたちは置き去りにされてしまっている。神も仏もない、そうして国家もない世界で、ボクたちは夢も希望もなく、ただ虚しく生き延びているのだ。

死を選ぶよりは出家したほうが良い。過労自死するよりは出家したほうが良い。路上に暮らすよりは、暴力に苦しむよりは・・・。そうに決まっている。

清水さんがボクたちにそう教えてくれているように思う。こんな世の中だから、そういう道もあるということを教えてくれているように、思うんだが・・・。

石巻山と豊川に満月

2件のコメント

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    福島元50今56在西日本さん、こんにちは。

    確かに、「自分で自分の信者を獲得して・・・」なのでしょうね。このアパートに来る宗教団体の人をみると、営業しているように感じてしまうことがあります。

    生きるために、宗教というか、言葉の力が必要な時が多いようにも感じます。それに繋がりみたいなものとか。

    お経の難解さ、神社仏閣の敷居の高さ、そんなことから、新興宗教にってことになるのかなあ、なんて考えていますが・・・。

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    >>生きることは悩み苦しむことなのだ。だから新しい生活の場や職場を求めて出家する。悩みや苦しみの原因は、学校や職場、社会や集団なのだ。

    出家で思い出したが、昔、勤労学生のころ、仕事が嫌になって、ぶらぶらしているとき、知人のつてで天理教の教会の住み込みをしたことがあった。これは一種の出家だろうと思う。
    ところが、考えたよりも厳しい生活だった。一か月の小遣い3000円(昭和60年当時)。支給の食事は朝昼晩、ご飯とみそ汁のみ(おかずは自己調達)。
    住み込み青年を自立させるため、また、金銭的な事情で、貧しい環境にしていたのだろう。
    宗教に依存するのではなくて、自分で自分の信者を獲得してその信者を飯のタネにするのが宗教生活だということを学んだ。
    しかし、私は天理教を全く信じられなかった。いまでもそう。
    宗教に逃げても金の問題からは逃れられないから、解決にならない。

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