神仏習合、神も仏もいる場所(39日目の1)

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5時30分起床。少し前には眠りから覚めてはいたのだけれど、早く起きたといしても早く出発するつもりもなかったので、そのまま目を閉じていた。それからパッキングをして洗顔、掃除、大師堂にお参りをして出発したのが6時10分だった。まだ夜の尻尾が山裾に残っていた。

早朝の観音寺市内を遠くに見ながら、7時少し前に六十七番札所大興寺に到着。空腹。そのまま7時30分に出発。国道377号線、朝の通勤ラッシュの国道を横断して遍路道を歩く。高速道の下に8時過ぎに着く。このあたりに遍路日記で読んだ「大喜多うどん」があるはずだけれど、まだ開店前だろうと思いそのまま高架をくぐる。そう考えると空腹感が増してきた。

大興寺の納札箱の上にイチョウの葉
(67番札所大興寺の納め札箱 黄金色の納め札)

県道6号線を歩いて、9時05分サンクス観音寺坂本店に到着。買い物をして駐車場であんぱんと缶コーヒーの朝食。ブラックサンダーも食べて、飴を口に入れて出発した。

観音寺市内を少し迷いながら、そして琴弾八幡宮のところも迷って、神社からの参道が分からないまま9時40分六十八番札所神恵院(じんねいん)、そしてとなりの六十九番札所観音寺に到着。

ここはその2つの札所が並んである。納経所はひとつで、一寺二札所という珍しい札所だ。そして琴弾八幡宮、このへんが日本の宗教のややこしいところだ。明治の神仏分離がなければ、石鎚も琴平もそしてこのここもひとつの宗教施設として存在していたのだから。

「仏教には神仏による救済の思想さえない」と司馬遼太郎が書いているように、解脱することこそが宗教者の目的だったのだから。教義や絶対者としての神や仏が幸いにも曖昧だったので、ボクたちは八百万の神や仏を拝むことになる。そして神社で七五三を行い、キリストの前で永遠の愛を誓い、仏の前で死の儀式を執り行う。

ということは廃仏毀釈という動きの中で、血なまぐさい事件も目だって起きることなく、そうしてその間にさえ仏教が残り、遍路も続けられていたことを考えると、日本人の柔軟性という世界的にも稀な資質こそが普遍的な宗教的な価値を持つのではないかと考えた。

開祖・日証上人が、現琴弾公園の「問答石」に座って黙想していた時、老人が船に乗って近くの海岸に到着した。上人が問うと、「我は八幡大菩薩(大分県・宇佐八幡明神)なり」。証しを見たいと聞くと、老人は海を竹林、松林に変えてしまった。驚いた上人が小舟や琴を琴弾山に引き上げて、祖となる琴弾八幡宮を創建したという。

六十八番・神恵院 (香川県観音寺市) : 札所周辺見て歩記 : 人 遊 食 : 関西発 :(読売新聞)

仏陀でも空海でもなく八幡神なのだ。寺の守護神として神社が建立されるというのは、なにもここだけではなくて広くどこでも行われていた。東大寺もそうだ。習合して、そして明治に分離された。

遍路も宗教的な行為としてではなくて、ロングトレイルとして、あるいはスタンプラリーとして行われれ、そして受け入れられるということは、もしかしたら世界的に類をみないのかもしれないと考えた。目がさめて、そして歩き始めれば遍路なのだから。

その2つの札所で納経が終わってベンチで座って、今着いた歩き遍路の人と少し話した。高知の人で区切り打ちをしているということだった。彼が納経に向かうとボクも出発した。10時30分だった。

六十八番、六十九番と並んで書いている納経所の看板
(六十八番、六十九番と並んで書いている納経所、この日は7か所を打つことになる)

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