無財七施とかアガペーとか(36日目の3)

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六十四番札所前神寺に着いたのが16時30分、それから少し慌てて広い境内を本堂、大師堂と納経していった。夜がそこまで訪れていたのだけれど、日中の賑わいの余熱が境内をゆっくりと温めているようにも感じた。

親子連れの遍路から声をかけていただいた。
「あの、歩いて回られているのですか」
「はい」とボクはいきなりの質問に驚いて答えた。
すると「これ、お接待です」と納め札を、それも錦の札をボクのほうへ差し出した。納め札は遍路の回数で違う。

錦、金、白の納め札
(納め札、錦、金、白)

1回から4回が白、5回から7回が青、8回から24回が赤、25回から49回が銀、50回から99回が金、そして100回以上が錦の納め札になる。納め札は金でも100枚500円ほどの値段なので、それ自体には価値があるというものではない。そしてその回数も自己申請なので、あるいは手段は問題としないので、どうも分かりにくい部分もあるのだけれど、とにかくありがたいものとして扱われる。特に金や錦の納め札は霊験があると言われる。

その回数、巡礼をしている人は、やはりどこか違うのだろうと思う。自己申請とはいえ、虚偽の申請はしないだろう、と思う。四国の食堂にはよくその納め札のコレクションを額装して壁にかけていることがある。縁起物でもある。

その錦の納め札をボクにくれるというのだ。
「実は、わたしたち一枚づつ頂いて、あなたを見かけたので、一枚お接待と思いまして」とボクに渡してくれたのだ。ボクはそれを受け取り「ありがとうございます」と言った。あっという間の出来事だった。そしてその親子は、そのまま去って行った。ボクは彼女たちの後姿に頭を下げて、そして納経所へ向かった。

無財七施、二枚もいらない、というか、二枚頂いたのだから一枚は他の人に、ということなのだろうと思った。善という能動的な行為ではなくて、布施やお接待という自然な行い。結果を求めない行為のようにも感じていた。それを行うことが生なのだろうから。

人の行為は常に結果がつきまとう。例えば「人のため」「自分のため」「ふたりのため」「人類のため」。「為」の「行」が行為なのだけれど、意識化ではないのだけれど、直感的に「返る」という意識が常に隣に存在している。善を積むということはそのまま現世、あるいは来世の自分に返る、ということが潜在的に思想としてあるのだからどうしようもないのだろう。

ところが布施という行為は、ギリギリのところでそういう宗教的潜在意識とは別のものであろうとしているように感じていた。それはごく普通のこと、たとえば挨拶をするようなもの、のように感じていた。

行為をマーケッティングで捉える人が多いということだ。幸福もそうだ。あるいは結婚や子育ても無償というものと少しかけ離れてしまっているように感じるときがある。

ということを考えながら、ボクは前神寺を後にした。17時ちょうどだった。

前神寺の極楽橋の親柱
(64番札所前神時にて極楽に渡る)

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