野宿1日目、眠れる場所のある幸せ(1日目の3)
260円、所要時間21分、それが板東-徳島間の距離なのだ。そのわずか260円の距離を3日かけて歩く。もちろん札所を巡るので遠回りになるのだけれど、21分の距離を3日かける、時間を逆行するような行為こそが、遍路なのだと思う。
ひよいと四国へ晴れきつてゐる
山頭火
昭和14年の10月7日に山頭火も松山から四国遍路を始めている。その頃は、きっと、交通の便も悪くて、時間の感覚も今とは随分と違っていたのだろうと思う。歩くことも、まだ普通なことだったのかもしれないし、遍路というのは「歩くこと」だったのだろうと思う。
ボクも歩いていた。
極楽寺で昼食を食べた。
そろそろ正午になろうとしていた。門前のお土産屋さんで「炊きこみご飯」400円と「よもぎ餅」170円を食べた。朝食も食べてなかったのでお腹は空いていたのだけれど、空腹を感じる暇もなかった。暇を考える余裕もなかったし、そして緊張もしていたのだろう。
この日の写真も少ない。緊張が感覚を麻痺させていたのだろう。しがみつきたくなるような風景、愛おしく感じる光景に対して、不感症気味になっていた。シャッターを押して関係を保つということさえも出来ないでいた。
ただ歩いては寺に辿り着いて、そしてその作業をしていた。作業、山門で一礼をしてから納経所で墨書授印して、山門で一礼して次に向かうまでの行為。
初日だからしかたないのかもしれないけれど、初日のお寺での記憶がほとんどなかった。結願して戻ってきた時に改めて発見したことの多いこと、そしてその風景は初めて見るようなことの多いこと、そのことがボクを驚かせたのだけれど…。
初日は5番札所地蔵寺までだった。
地蔵寺を打ち終えた時点で16時前だった。ボクはへんろ道を6番札所安楽寺方向に歩いた。そして奥谷橋を渡るりそこから左折した。へんろ道を逸れる道に左折した理由は「川沿いのほうが野宿場所がありそうだな」と感じたからだ。もう橋を渡る頃には夜の気配が辺りに広がっていた。夕餉の匂いが温もりを感じさせた。
ボクは川沿いを歩いていた。そして「やっぱり役場方面に行ってみるか」と交差点まで戻ろうとした。少しして自転車のおじさんから声をかけていただいた。「スポーツ公園には泊まらないのか?」
ボクには何のことだか分からなかった。だから「え?どこですか」と聞きなおした。おじさんは「お遍路さんは、この先にあるスポーツ公園に野宿する人が多いよ」ということ。
「そこは泊まれるのですか?」
「みんな泊まっているよ」
「この先にあるのですか」
「ああ、川沿いに行ってたら見えるよ」
もう辺りは薄暗かった。あと10分もすれば夜になる頃だった。
ボクは「ありがとうございます。そこに行ってみます。その前に何か食べるものを買ってから行きますので。」と礼を言ってから、スーパーでぐちに向かった。空腹だったし疲れてもいた。もう横になりたかった。睡眠不足だった。
スーパーでぐちで買い物をしたボクは、おじさんから教えていただいた「上板ファミリースポーツ公園」に向かった。もうすっかり夜だった。ヘッドライトを引っ張り出してその光を頼りに公園に向かった。
広い公園だった。場所を探した。野宿する場所、どこでも同じようだけれど、条件を出せと言われれば、屋根があって壁がある場所、ベンチがあればなお良いのだけれど…。そして自分の感覚と一致するような安心感のある場所、というものがある。気持ちが落着く場所というか…。
探した。野球場があった。ボクは1塁側ベンチに腰を降ろした。野宿1日目、そしてそこがその夜のベッドになった。
上板スポーツ公園1塁側ベンチ。遍路の、夢はグラウンドを駈け巡る…。この日の宿泊場所。