場所がない場所

17日、お盆休みも後半になると、憂鬱になってくる。木陰でうつり行く雲を見ているような毎日。田原での時間とは明らかに違う時の流れ。それは「時」というものが、長い短い、軽い重い、多い少ない、濃い薄い、早い遅い…などとは少し違うもので、満腹感がご飯によってもたらされるか、パンによってか、という違いみたいなものなんだ。

今日は燃えるごみの日だったので、朝早く起きて、散歩がてらゴミ出しに行きました。台風が来ているようで、そんな感じの雲が空に広がっていました。夕べはコメントを書いた直後に買い物へ。「曇っている」と書いたのですが、実は晴れていて夕陽が綺麗な一日の終わりでした。


隙間から見える夕陽

車を運転していて、その綺麗な夕陽を写そうと思うのだけれど、場所がない。車を停める場所がないのと、見えていた夕陽がビルに隠れるので、写す場所がないのです。電気屋の駐車場に停めて国道を、今来た道を少し引き返す。それでも建物が邪魔をする。刻々と過ぎ行く時間、それに合わせて沈む太陽、どこに行けば良いのか迷う。なぜ来た道を引き返したのかと自省。夕陽を探すのではなくて、ビルの隙間を探していることに気がつく頃には、太陽はもうすっかり姿を消した後。来た道を引き返す。電気屋の駐車場。

「場所がない場所」というのは、かなりボクたちの生活の中にはあって、それはただ単に混雑していてない場合もあるのだろうし、また反対に広すぎる広野にひとりいるような場合もあるのだろう。要するに自分に適した場所、自分の場所というのはどこにでもあるわけではなくて、場所がない場所をさ迷いながら探しているのだろうと思いました。

それでもその場所を探し当てたとしても、こんどは座り心地の良い椅子なんてのを探し始めるのでしょうね。電気屋の駐車場に戻ってから、その電気屋で少し買い物をしました。それから、古本屋に行って明後日列車の中で読む本を買いました。それから家に帰って、遅い夕食。

そんな昨日の夕方のことを思い出しながら、17日の朝、近くの川沿いを散歩しました。台風は九州に上陸するらしくて、雲もそんな嵐を予感させるような激しい形のものでした。ラジオ体操というのはやっていないのでしょうね。どこからもそれらしき音楽は聞こえなかったので。子供の頃の夏休みのことなんかも思い出しながら、ボクは家に帰りました。

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