ふるさとの山に向かひて

列車の車窓から故郷を感じるのは、そこにある山を見ることからなのかもしれませんね。今回帰省しまして、関門トンネルを抜けて見える風景、それは山々の容そのものであったように思います。太古の昔から連綿と続けれらた帰郷や望郷ということは、その山々の容を見ることや思うことであり、そして過去の人々の(それには幼い頃の自分も含むのですが)の幻を見ること、なのかもしれないと思っています。車窓から山を見る、ということ自体が過去への問いかけであり、存在の確認だと言えるかもしれませんね。


実はボクの生まれたところも田原ににているよう思う

原風景と言えるものは故郷の山々の容であるのかもしれません。それ以前の記憶は、それはきっと海であって、母胎なのだと思っています。海は母、父は山、なんだろうかと、考えています。(そんなことは、とうの昔に語り尽くされていて、ボクが無学なだけかもしれないのですが)

「過去の人々の幻を見ること」が、昨日書いた「日常との離脱」要するに現実からの離脱という旅の目的というか、人々の旅に対する欲求そのものなのでしょう。時として旅が歴史のトレースという場合もありますから、風景に幻を見るということは、それほど意識しないにしろ行われていたりするのではないかと思っています。山や海を見て、過去の人々と向き合う。帰郷というのは、過去の人々が父だったり母だったり、同級生だったり、別れた彼女だったり、そしてその幻という映像の背景にはその山や海がある。これが起きているような寝ているような状態なのでしょうね。

帰郷とは、霊体験と言ってもいいのでしょうね。その現実離脱した時間の中で、ボクたちが見ているのは、過去という幻であるのですが、それを誘うのは風景であり、それは自然という巨大な仕組みなのでしょう。仕組み、構造であったり仕掛けであったりなんでしょうが…。

ボクが田原寮で笠山や蔵王山、姫島を見ていろいろ思うのは、やはり過去の人々、トヨタ期間従業員として田原工場に勤めた人々との対話をしているのかもしれないと、考えています。その「いつもの風景」は、ボクたち現役や元期間従業員にとって、トヨタでの生活の父なる山、母なる島なのかもしれませんから。

あるいはお盆ですから、ボクになにかが憑いてこういったことを考えさせているのかもしれませんね。幾千もの霊が(それは死霊であったり、生霊であったりするのでしょうが)ボクを霊媒として期間工の生活や思ったことなんかを喋らせている…なんて考えるのも、きっとお盆だからでしょうか。(あ、いえ、それと、決して靖国問題にかけているわけでもありませんから:)

『ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな』

山の存在そのものが、自分の存在そのものなのかもしれないと思ったりもします。
#中年Hさん、どうもありがとうございました。

2件のコメント

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    こんにちは。
    九州のホンダ大津工場でもたまに期間従業員を募集しているようで、ボクもそちらに行こうかと思ったときがありましたが、なかなか募集がなかったので…。
    ビジネスホテルを貸しきっているんでしょうね。完全個室でうらやましいです。作業着なんかもトヨタと違って、つなぎを貸してもらって、洗濯も工場でしてくれるとか聞きましたが?
    お盆休みですが、その快適なビジネスホテルでお過ごしなんですか。ビジネスホテルだと、旅行気分が味わえたり?
    また、コメントしてくださいね。なんせ他の期間従業員の情報ってのがあまりないもので。それでは、また。

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    こんにちは。期間従業員で検索したらココに辿り着きました。いま、ホ○ダで期間工やってます。まだ、一週間ですが思ってたより快適です。ビジネスホテルに泊まり、食事は工場の食堂(一部自己負担)で食べ、同期の仲間もできました。ホテルでは無線LANも可能です。「平成のマグロ漁船」とは今のところ程遠いが、どうなることか・・・。

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