冬のソナタ

田中和風寮の生活が始まった金曜日の午後、MさんもTさんもその週は一直勤務で、ボクが荷物を部屋に運び入れている時に二人とも部屋にいる気配がした。少しして初めてMさんと顔を合わせたのが、その部屋の住人との最初の出会いだった。

その時、Mさんは不思議なことを言ったんだ。「私、出身は韓国なんです」とボクには聞えたのだけれど、それがどういう意味なのかは、そのときには分からなかったんだ。「そうなんですか」とだけ、ボクは答えたように思う。「名前読めないでしょ?」と名札を指差して言うMさんのその指の方向にある名前を、確かにボクは読めなかった。もうそれ以上聞くのは、ボクにはとても疲れる作業のように思えたし、それは何かいけないことのような感じもしたんだ。
トヨタ自動車の大きな雇用力というものは、初回40歳、経験者だと59歳まで雇うという年齢の壁がない/低いことだと思う。それとは別に、例えば応募するのに必要なものといえば履歴書一枚だけで、その過去になにがあったとかということはほとんど問題にならないし、現在においても履歴書を調べているのかということさへも疑問に思うぐらい、簡単に入社できるということ、すなわちほとんど壁がない/低いということなんだと思う。
よく言われることなんだけれど、身元保証人がひとりいれば、それも確認の電話とかもないから身元保証人の名前と印鑑さえあれば入社できるので、「驚くような経歴の人がいる」そうだ。確かに応募する本人さへも雇用保険被保険者証と年金手帳だけが本人を確認する方法だけのものだから、それさへ手に入れれば、たとえ本人でなくても入社できるのではないかと思う時がある。
いろいろな人がいるということは、何もそんなことを考えなくても、あの田中和風寮やボクたちが現在住んでいるトヨタ自動車の寮を考えれば、「確かに、いろいろいるよ」と納得いくと思う。刺青が有る人は面接で落とされるのだけれど、せいぜいそれぐらいがふるい分けしかなくて、そしてそれがトヨタの何かを守るための必須条件なのかと考えると、その何かとは、やはり作業中や寮生活の秩序なのかと思っているんだ。
要するに、ボクは、トヨタが求めるのは、ごく普通の人たちで、その人たちには極力感情を抑えて仕事なり寮生活を送ってもらいたいのではないかと考えている。たとえば任侠道を歩き続ける男気のある人だと、CLやGLと切った張ったになるようなことだってあるだろうし、配属組で「組」を作らないとも言えないだろうから、歩くとしたら「トヨタ道」をまっしぐらという人のほうが好ましいのだろうと、思っている。
あの田中和風寮の部屋も、ごく普通の人たちが住んでいて、そして表向きには感情を抑えて暮らしていた。Mさんがネイティブなコリアンだったとしても、それは特に問題にならなかったし、それどころか後輩であるボクやTさんには頼りになる人だったんだ。
その年、2004年には「冬のソナタ」がテレビ放映されていた。Mさんは毎日欠かさず見ているようだった。あの音楽と韓国語の台詞がフスマ越しに聞えてきていた。それはMさんの二直の時の日課で、そして番組が終わると必ず家に電話していた。Mさんの家は関西のほうで、そこには奥さんと2人の子供がいるということだった。
電話はまず奥さんと話して、そして最後は子供たちと替わって、ただ「うん、そうなんだ、そうそう」なんて言葉の繰り返しで、受話器の向こうから聞える我が子の成長をただ思い出しているようでもあった。そして最後はいつも泣いていた。
Mさんの悲しみは、きっと、その韓国語のドラマを見た後にわが子と話すということにおいて、自分たちの運命なんてものを、少しだけ思っていたのかもしれない、とボクは考えていた。「今度帰るからね」といつも言っていた。それほど遠い距離でもない家族の間が、多分Mさんには永遠のように感じられたのかもしれない。鼻をすする音が聞えていた。
ボクの二直の朝は、いつも冬ソナのあの歌と、そしてMさんの泣き声で始まっていた。フスマ一枚隔てた向こうから聞えていた。ボクはいつももらい泣きしていたし、それはTさんも同じだったに違いないと思う。ボクたちは何かと別れを告げて田中和風寮に住んでいたし、トヨタに来ていた。それがトヨタに出稼ぎに来るということだった。
あの11階建ての巨大な寮の中には、どれだけの喜びや悲しみが詰まっていたのだろうか。喜びよりも悲しみのほうが圧倒的に多くて、伝説の寮なんて言われているのだけれど、実は悲しみの寮で、フスマ一枚で仕切られているだけなので、男たちは声を押し殺してむせび泣くことしか出来ない。それがさらに悲しみを深重なものへとしてしまうのだろうと、ボクは、あの頃思っていた。
今でもあの頃のMさんの、表現できないような声を憶えていて、冬ソナの音楽が聞えてくると、あの頃のボクたちの朝を思い出して、やっぱり胸が苦しくなって、泣けてくるのだ。

4件のコメント

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    こんばんは。
    >dさんへ
    えっと、その話も、泣ける話かも。やっぱり来た当初ってのは地元の友達に電話したりしますよね。ボクは、ま、携帯を持ってないので、電話代なんてのは月1000円もかからないですけれど…。
    みんな、初めは希望や夢なんかよりも、やっぱり不安や寂しさを強く感じていたのだと思います。
    >もっちんさんへ
    いえ、ま、みなさん大人の対応をしていただいたので、ボクとしては感謝しています。
    そうですねえ、辛い仕事も上司しだいでは楽しいものになりますからね。上司に言われた今でも忘れられない言葉は「死ぬなよ」です。その時の光景も含めて、今も思い出す時があります。
    ボクが良い上司だと思っていても、キライだと言う人もいましたが…。ま、それもやっぱり経験が必要なのかもしれませんね。
    そんな経験ということで、コメントを記事にしました。期間工ってのは、出稼ぎ労働者の働き口でもあるのだから、そういう意味では、やっぱり悲しい物語は多い、その人生の交錯するところなんだろうと、思っています。
    >名無しさんへ
    ま、あの国の公共事業ってのは軍事ですから、日本なんかの年度末の道路工事みたいなもんなのかもしれませんよね。
    ボブディラン、ブルーススプリングティーンの、どのアルバムがいいのかなあ。なんでもいいのでしょうか?「風に吹かれて」とかだと知ってるけれど…。
    全部は聞くのがいいのだろうけれど…それはかなりの出費になるので…。何枚か推薦して欲しいです。お願いします。

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    基本的に私はアメリカ嫌いですけど(自国の利益の為に他国にいちゃもんつけて軍事介入する政治姿勢)、でも、B・デュランとB・スプリングスティーンは好き。何故?それは、70年代後半から90年代前半に生じたアメリカの歪みを訴えているから、この歪みは今の日本に当てはまっているからです。騙されたと思って一度聞いてみてください。多分管理人さんなら理解できるはず(個人的憶測ですけど)

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    まずは管理人さんへ
    私の書き込みで場が荒れてしまった事をお詫びいたします。
    あそこでまた私が書き込むと余計に場が荒れてしまうのではないかと思って静観してたんですが・・・・・・・・
    だいだい皆さんが言いたいことを言ってくださってますんでますが、一つだけ。
    その仕事の好き嫌いを決める要素は多々あります、幼い頃からの憧れやその仕事についてから面白さに気がついたりなんて事もあるでしょう。しかしそれを決定する最大の要素は職場の上司なり先輩に恵まれているかどうか。その仕事の面白さをさりげなく気を付かせてくれる、優れた方々に恵まれるって事なんだと思います。
    まあ、この事に気がつくのって、たいていがある程度の人生経験を経てから(老若男女問わず、言わば修羅場を経験した回数ですね)なんですよね。
    すみません、話がそれました。
    私も前職の大手メーカー勤務で寮に数年いた事があります。
    トヨタほどではないですが、7階建ての巨大な寮に男女数百人が生活してた中で、いわゆる契約社員という人達も多数おられました。当時4人部屋を2人部屋に改装中で、勤続年数が上の正規の社員は会社の借り上げたマンションに移行するか、自分で部屋を借りるようにする事となり。
    寮はいわゆる契約社員である期間工さんと、年数を経ていない社員の集合体でした。そこでよく若手社員と期間工さん達のトラブルがあり、寮の自治会で話し合いの場が持たれた時があったんです。
    若手社員はロビーの電子レンジを独占したり、部屋で自炊する事を。期間工の方々は若手社員が夜遅くまで騒ぐ事をクレームに挙げて、会社の人事と寮監がそれをお互いに注意するようにと玉虫色にまとめようとした時に、社員からロビーに数台ある公衆電話を夜間に期間工が独占してるとクレームを
    (10年以上前は携帯は普及してませんでしたから)
    つけたんです。
    その時に遠慮がちだった期間工の皆さんが色めきたって、その内の一人がこういったのを覚えています。
    『俺たちゃ、お前さんらと違って外様のよそもんだ、だから一部の不心得な奴の仕業を俺らみんなのせいにされるのも我慢してきた』
    『しかし、公衆電話を独占してるから期間工だって証拠はあるのか?』
    これにある若手社員が
    『夜中に泣きながら電話すんのは契約のおっさんか新入社員だけだぜ』
    と期間工の方の琴線に触れる発言をした直後、その若手社員は臨席していた別の期間工に部屋の外に出されてボコボコに殴られて血まみれになったんです。
    その殴った期間工さんはよくスーパーの店先に置いてある、パンを入れてるプラスチックケース(業界用語では番重と言うんです)を洗浄する部署にいてて、当時2年目だった若手社員の私がその箱が足りない時に、その部署に行って工面を頼むと嫌な顔一つ見せずに笑顔で工面してくれる温厚な方でした。
    夜勤明けで入浴の時に何回か声を掛けてくれて、田舎から送ってきた果物を貰ったり、薄暗いロビーでよもやま話をしたりした仲でした。その時にその方の故郷は青森で元漁師さんである事と、国に小学生の子供が3人いる事、奥さんが病気がちな事、年老いた両親が留守を預かっているを知りました。
    そして、夜中に公衆電話に頻繁に電話してた期間工の一人がその方である事も、実が知っていました。
    公衆電話のカウンター越しに顔を隠しながら、声を潜めて泣いていた?ような場面も・・・・・・・・
    その数日後にロビーの公衆電話と電子レンジが取り払われ?る大岡裁き?が下され、殴った期間工さんは翌日から姿を見せず、その後退職された事を知りました。
    悲しみであり、プライドであり、そのごちゃ混ぜのような
    おさまりのつかない物をおそらく押し込める為の笑顔であったのか。それを情け容赦なく土足で踏み込まれた事に対する怒りを殴ることでしか表現できないほどに追い込まれていたのか・・・・・・
    今はどうしているのか、おそらく子供さんは成人していて、故郷で暮らしているのか、あるいはまだどこかの工場で働いているのか・・・・・・
    しかし、ほんとに工場の寮は人生が交錯する所でした。
    トヨタはその何十倍もの・・・・・なんですね。
    またまた長文すみません。では。

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    こんばんは。
    僕も聖心清風寮のゲジゲジだらけの部屋に住んでいたころを思い出し少しセンチになりました。僕には管理人さんのように泣けるエピソードなんてのはないのですが、当時はやはり電話を毎日のようにしていました。金を貯めるつもりだったんですが月の携帯料金4万を超えたり(笑)
    あの頃は淋しくて早く地元に帰ることばかり考えていましたね。今は別の意味で淋しい人間になってしまいましたが‥

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