保証人はいますか

絞れるような空気…。
ボクが言ったのではなくて、同じ組のC君が、最近の湿度の高い空気をそう表現したのですが、言い得て妙ですよね。蒸し暑い一週間が終わりました。来週からは7月、まだまだ暑い、そして湿度の高い日々が続くのでしょうね。

久しぶりに姫島を見た。エコパークに行った。なんか歩道みたのが出来ていて、そこから魚釣りとかしていて…。海が随分近くなった、というか、海の上に立てるようになったのは、なんだか良い感じだったかな。
保証人について考えていました。
人を保障するというの「構築された人間関係」によって行なわれるものなので、それは過去の「証拠満載の経験値から」判断されるものなのだろうと、ボクも思います。しかしながら、保障は将来に対して行うものですから、実はかなり危険なことというのは周知のことなのですが、それは実体のないものに対しての保障、『「経験値」が存在しない』将来への保障だからでしょうね。
「証拠満載の経験値」というのものから将来を判断しなければならないということは、保証人を付けられる人間というのはそのアリバイをいつも作っておく必要があって、そうなると「オレ/ワタシはとても良い人です」なんて生活態度を強いられるのが、保証人を必要とする文化圏で生活する人たちなのかなあ、と考えたり…。
その人の(証拠のない)将来が、いくら倫理的なものであったとしても、それを裏付けるものは何もないのですから、そうなるとその人の将来なんてのはイメージするしかないのだろうし、そいう能力が全ての人に備わっていればいいのですが、そうでない場合は(そうである場合も)なにかを担保にする必要もあるわけで、その担保というのは物であったり自分であったりするのだろうと考えると、保障というものは質入みたいなもんで、どれだけの保障をできるか/されるかというのは、やはり質草としての被保証人なんだろうと、思うのです。
人の将来なんてのも、担保できるものによって安心感は違ってくるのだろうから、いくら精神論を訴えたとしても、人それぞれ違っているのだろうし、安穏な将来を想像できるというの…ボクにしてみると根拠のない楽観主義みたいなもんで、「それってちょっと天気良すぎるんじゃない」なんて感じてしまうのですよ。
将来というイメージの世界は、「証拠満載の経験値」というアリバイ(根拠)から導き出される場合はいいのですが、何のアリバイもない場合は、荒唐無稽なものに感じられる場合があって、なんだか虚しくなるってものだと思っています。
トヨタに入社したから幸せな将来が待っている、なんて考えるのは、ま、確かに多少の根拠はあるのだけれど、それって、とても素晴らしいイマジネーションだと、思ったり…。ま、トヨタという保証人は付けられたことには間違いなのだけれど…。
#これは次の記事への前振りでもあったりします…。

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