銭ゲバ(2)

松山ケンイチくん、スゴイね。
第2回目の感想をざっと。まだ記憶に鮮明なうちに…。
500万円の時計を捨てるシーン…。
生まれつき幸せな奴らを嫌い、「懲らしめたいよね、あんなやつら…」
ここから茜と風太郎の出会いが始まる。
努力は報われるということがまだ信じられていた70年代80年代の戦後日本社会型の格差社会の、ひとつの型としての貧困家庭出身者風太郎なのだけれど、その格差社会でも努力ではどうしようもないものが存在する。それが風太郎の言う「産まれつき幸せな奴ら」であって、いくら努力によって階層が上昇すると言っても、限界があるのだけれど、ひとつだけ一気に駆け上ることが出来る方法、それが風太郎の行った逆玉に乗るということなのだろう。手段を選ばない、あるいはそれは、努力というものへの信憑性なのだろうけれど…。
子供の時の三国家での出来事、それはまだ風太郎の中に憎悪として残っていて(その想い出こそが、格差への憎悪となっていて、消えることのないものなのだろうけれど)そして、生まれつき幸せな奴ら、格差社会のもう一方の象徴としての富裕層への復習という形で努力は実行される。
茜のアザと、風太郎の傷は、格差の象徴として描かれているて「幸せにはなれないと思って生きてきた」そして「同じだよ」と風太郎が言うように、努力ではどうしようもない(お金があっても)ものとして描かれている。
努力が報われるという高度成長期の日本社会だったのだけれど、その中にあっても、「幸せになれない」格差層としての(あるいは、希望格差社会の原型としての)顔の傷なのだろうと思う。
ドロリとした日本的格差は、ずっと残っていて、観客としてのボクたちにも、古い話ではなくて、その格差や差別みたいなものを考えさせる。そしてその格差は、実はもっと過去を遡れば、かなり混淆した姿(というか、婚姻という形でとか)であるものなのだけれど、なんてことを考えさせられるんだけれど、そうなると、松山ケンイチくんと、茜役の人、スゴイね、と、思っているのだけれど。
と、「銭ゲバ」2回目の感想をメモとして…。また、改めて書くかもしれないけれど、あとは頭で考えるだけにするかもしれないけれど…。
(1回目の感想)銭ゲバ

2件のコメント

  • blank

    まことさん、こんばんは。
    きっと、そうだろうなあ、なんて思っていました。失礼かもしれませんが、世代的な考察というか、感じってのは、それなりの年齢を経ないと出来ないようにも思っています。
    憎悪出来る対象がハッキリしていることが羨ましいと、ボクは感じています。今は、派遣問題でも、相手が曖昧になっているようにも感じますし…。
    憎悪は、人を動かすと思いますし。ま、へんな言い方ですけれど、秋葉原なんかも…。
    今のボクのように、引きこもっているのは、一番最悪だろうし、それが自己嫌悪になるし。
    どんな形にしろ(語弊はあるかもしれませんが)パワーに繋がるものは必要かもしれませんね。今だから、とも思います。

  • blank

    今日、銭ゲバ見ました。
    率直に言ってこのドラマはいい!
    と。。。
    工場の風景も自分とダブりますし
    なんと言ってもあの全体を流れる気だるさと
    それに対比するがのごとくの強烈な憎悪
    彼が羨ましくもあるのは何故なのかわかりませんが
    今の時代にこそ必要なドラマであると思います。。。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA