雪だったね(再掲、だって雪が…)
お昼過ぎのぐるりんバスで田原駅へ。
雨は3時過ぎには雪にかわる。
もうすでにその時点で、ボクはかなり濡れていて、傘を持つ手とか靴下までびしょびしょの足とか、すこし感覚がなくなってしまっていたのだけれど…。
立ち寄ったスーパーで靴用のホッカイロを買ったのだけれど、濡れた靴、靴下には効果がなくてね。そんなこと、たったそれだけのことなんだけれど、なにかもう、どうでも良いような気持ちになったのだよ。絶望感、というか、虚無感、というか…。
陰陰とした冬景色。
鬱々とした心模様。
神社まで行く。
「行く」というよりも、そんな意思を持ってというよりも、ただ、ただ、ただ…。
遠くクルマの音、電車の音、寒声。
へばりついたもの、この魂とか身体とかを、自由にさせないもの、それは、たぶん、執着心というよりも、もうかなり本能の部分だけで、それだけで生きているような、生とか生命とか。
ファインダー越しに見えている、その雪が、本物がどうかなんてことは、もうどうにでもいいことなんだろうと、思っていて、それは、その瞬間から写真という記憶の、あるいは、ボクの生の痕跡になって、いるのだから、逆に、ボクが、その瞬間に生きているとかという問題は、この場合は、どうでもいいことで、ただ、そこに「あった」風景と、そこにいた「ボク」ということだけが、もうフィクションとして、語られはじめる、というのが、実は、真実だということを、ボクも知っている。
そうして、ファインダー越しの物語が、キーボードの脚色をされている、というような二層の記憶を、さらに繰り返す、ということ、なんてことになると、もう、ボクが誰だって、そして生きていようが死んでいようが、どうでも良いことだ、ってことぐらいは、分かっているのだけれど…。
へばりついた、あの壁のヤモリは、屋根裏で冬眠をしていることを、ボクは知っている。そして春になれば、またいつもの場所にいて、ボクにはどうしようもなくて、あの目を気にしながら、小走りにその壁を通り過ぎている。
そんな人生なのだよ。
寒い日は、どこかに「頑張って生きなければ」なんて思う気持ちがあります。仰るとおり「仮死状態」なのですけれど…。まだどこかに寒さを感じることが出来るうちは、なんて考えていたりします。
何か残るかなあ、なんて考えると、そうなんでしょうね。それだけ、みたいな、感覚かなあ。そんなに一杯ではないのだけれど、「それだけ」のような。
いろいろな欲が消えてゆくようにも感じています。
冬のせいなのかもしれませんが…。
なんだか自分も本能的な部分で生きているような気がします。
精神は仮死状態なのですが
そのうち凍死になるかもです。
自分も写真を撮りブログに載せてますが
それはもう通り過ぎたもの
そこに自分がいたかどうかも重要でもないような
生きていても死んでいても
それだけは残っているかなと。。。。