コタツの上の春

終わる。
梅の花とか、冬とか、冷蔵庫の卵とか…
朝、レース越しに入り込んでくる光や風は、ずいぶんと温かくなっていて、太陽の位置もずいぶんと高くなっている。ボクはその間に漂っている孤独をながめていた。今朝のこと。
長い沈黙、たとえば2日も人と話すことなく過ごしていると、気持ちも沈んでゆく。メールなんてものも、たった一行や二行の長さが億劫になる。そうしてただカチカチと音をたてて流れる時間の表面、たかだか1メートルに満たない距離を往復している。そしてやっぱり、その隙間にある孤独をながめている。日々だったり。
昔の写真、ボクがまだ中学生の頃の写真が一枚だけあって、それを引っ張り出してコタツの、白い天板の上に置く。中学3年生のボクは、宮崎県児湯郡木城町の山中、見ず知らずのオジサンの車の後部座席にいた。ヒッチハイクをしてその山の中から高鍋に戻る途中だった。どこか広い場所で休憩した。
オジサンの子供2人と一緒に写った写真。15歳のボクは、その冬から春にかけて、旅をしていた。冬に宮崎に行ったあと、春には山陰を回って米子、鳥取砂丘、兵庫を、ただ車窓からの風景や、降りた駅の佇まいをながめるだけの旅をしていた。野宿や駅泊、旅館の物置みたいな部屋、なんてのところで、夜は夜の中にいた。
その写真のボクは少し微笑んで、レンズをのぞきこんでいる。3人兄弟と言ってもいいような自然さでボクたちは写真の中に納まっている。深い山、冬の午後、乾いた光、逃げ場をなくした時間、記憶の中の記憶…。
微笑んでいるボクは、その年の冬から春にかけては、ほとんど笑うことがない日々にあっては、やはり今のように、沈黙の中にいて孤独を見つめていた。友だちはと呼べる人も、いなかった。前の年に転校を繰り返したボクは、学校では「休み時間なんてなければいいのに」と思っていた。教室の空気が緩み、授業から開放されると、そこいらで話し声や笑い声が充満する。そしてボクはガラスの破片のような潔癖さを持って沈黙を続ける。休み時間はボクの沈黙を際立たせる。
ずっとずっと、一日中休みなしに、お昼もなしに、授業が続けばいいのにと思っていた。
そして言葉についてずいぶんと思い悩んでいた。「彼らと何を話せばいいのか」ということをいつもいつも考えていた。あるいは「彼らと何を話したらダメなのか」ということも、セットで考えていた。考えるほど、ボクは沈黙という深い森の中で道を見失っていた。
そんな15の春の記憶を辿っていた。朝のこと。いまにもしゃべりだしそうなボクは、少し微笑んでいて、まだ多くの夢や希望も残っているように微笑んでいるのだけれど、やっぱり今と同じように押し黙ったまま、ボクをながめている。いつものように。
コタツの上の春。
昔の写真

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