誰かをあてになどしてはダメです

たまに、こんな独りの夜は、といってもたいがい独りの夜だったりするのだけれど、どこかに出かけたいと思う。近くに知り合いでもいれば取りとめもない話をして酒を飲んだりするのだろうけれど、そういう人もいない今の状況では、ただ沈鬱として夜をやり過ごそうとして、もがいていたりする。
少し散歩に出かける。駅の通路にはもうこれ以上折り畳めないといった窮屈さで身体を折り曲げて、柱と壁の間のちょうど人が半分いられるほどの空間に、寝ている人が、その柱の本数分いる。ゴロリと転がっている。まるで死体のように。呼吸する度に胸の辺りが僅かに動く。その動きこそがこの世とその身体を繋ぎとめている唯一の証。生命とはその衣服の動きほどの範囲でしかない。
ボクは救われたいと思っていた。宗教でも良かった。例えば、あの頃のように新興宗教の勧誘者がそこいらにいて、グルの素晴らしさを説いていたとしたら、迷うことなくそれにすがったかもしれないと思った。
そういった経験もあって、10代の頃、日曜の教会に通ったこともあった。昼食のカレーライスや、ボクを誘ってくれた綺麗なお姉さんに会えるということもだけれど、結局は何かにすがりたいという気持ちがかなりあった。20代になってからは臨済宗のお寺に行くこともあったし、そこの住職と話したり泊めていただいたりしたこともあった。その時も何かにすがっていたいと思っていた。
例えば、ドライブに行くような感じで、ボクは教会やお寺に行っていた。
皮膚と衣服の間での蠢きでしかないような生命の範囲からどうにかして抜け出したいと思う感覚、そのようなものがいつもボクにはあった。そして今もある。
こうして少し湿度が高くなる夜になると、どこかに出かけたいと思う。ここから抜け出したいと思う。それは明け方までの数時間でも良いのだけれど。ただ、ここにこうして留まっていても、よほどのことがなければ動かないのだからどうしようもない。
夜中に散歩に行くのが精一杯の日々…。いったい、これが正常なことなのか、これが生きていると言う蠢きなのか、ボクには分からないでいる。
誰かが、きっと、ボクを外に連れ出してくれると考えていたりする。その誰かが誰なのかは分からないし、その人の出現が今なのか、あるいは未来なのかも分からないとしても、手を差し伸べてくれる人が出現するように思ったりもする。
ボクはひとりで立ち上がれないほどになってしまっているのだろうか。と、そいういうこともセットで考える。誰かに頼らなければならないほど、身体も心も疲弊しきっていて、その相手の身体にしがみつくようにして、バランスを取って、そうして、例えば助手席に乗るように、ここから出発しなければならないのだろうか。
いや、誰かをあてにしてはダメなんだろうと思う。きっと、その誰かを頼るとボクは更にダメージを受けるように思う。そういうことは過去にも何度もあったのだし。
ボクは、何があろうと、きっと、自力で立ち上がって、自力で全てを準備し、行動しなければならないと思うんだ。誰に相談することなく、あるいは、ここで弱音を吐くこともなく、そしてこのようなことを書くこともなく、ただひたすらに「強く強く」と念じながら、ガツガツと歩かなければならないのだろうと思う。
ボクはボクを救えないでいるのだ。当たり前のようなのだけれど。ボクがボクをここから連れ出すのは、無理なのだ。そしてそうしてくれる人もいない今としては、ボクはここにいることしか出来ないでいる。それはまるで柱と壁の間にへばり着いて寝ているあの人たちのようでもあり、こうして生きているふりはしているけれど、皮膚と衣服の範囲での生命であって、まるで死体のような日々を送っていると思う。
だからどうしたということで、きっとボクの性格がそういった不幸を招いているのだろうと思う。も少し、ほんの少し、弱くなれたらと思ったりもする。そして「助けて」というメッセージを送ることが出来たらと思ったりする。
と、思いつくままに書いてみた。そんな夜なのだ。そしてまた日曜日。特売卵の日だったりする。その卵10個分が一週間だったり。さてと…。
南極観測船ふじにて

10件のコメント

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    こんにちは。ムシムシしていますね。余りにも少ない情報から、全てを理解するのは難しいものですからね。
    だからあまり気にしないで下さい。

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    悠々さん、おはようございます。
    ああ、すみません、普通「義理」と言えば、奥さんのご両親ですよね。複雑な事情がおありなのかなあ、なんて思ってしまって、そこから抜け出せませんでした。
    そうですねえ、義理の関係というのは、相方の親だというだけで血も繋がっていませんしね。子供たちとは血が繋がっているから、そのあたりが微妙な関係ですよね。

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    こんにちは。両親はまだ生きてますよ。相方のほうは、強烈に子離れが出来ない母親がいますけどね。
    最近まで同居していましたが、互いに協力して生活するのはイヤだと言って、引っ越し先も知らせずにトットと出て行ってしまいました。
    そのくせ今頃になって、会いに来てくれなくて淋しいから自殺したい、と、相方の兄弟に連絡入れるも、相方の兄弟も住所を知らないと言う、謎な義母です。
    誰かを頼るなとは思わないですが、依存はするな、とは思います。

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    悠々さん、こんばんは。
    雨ですね。
    今のお母さんも義理のお母さんなのでしょうか?
    会ったことがないのは悠々さんで、18年暮らしたのはお母さんとその家族の方たちだとすると、義理のお父さんが亡くなったあとに、実のお父さんに連れられて結婚されたのだろうと考えています。
    性格は、ま、替えられるというか、環境に合わせられるといこともありますもんね。クラス替えとか、進学なんかで、かなり変化する人もいますしね。
    確かに、折り合いをつける、ということは大切なことでしょうね。そうしないと「欲深い」ですから、その格差に嘆くことにもなりかねませんし。
    そうですね。ま、そこは分かってはいるのですが、やっぱり欲深いかなあ。

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    こんにちは。昨夜引っ越しの荷物の整理をしていたら、18年前に義父が遺書を殴り書き残した手帳がみつかりました。
    几帳面に細かくスケジュールが記入されていました。
    殴り書き残した文章を読んで、一緒に暮らした18年、その後の亡くなってからの18年で、何故自殺なのか残された家族は未だに悩むのですよ。
    実際にあったことはない義父の、最後の文章を読んで、あぁなる程ね…的思いです。
    記事にもあるのですが、性格もチェンジできますよ。かなり辛いのですが、自分自身との戦いができるならば、ですけどね。
    人は死ぬまで自分自身との戦いです。
    如何に自分と折り合いをつけて、主観的にではなく、客観的に、冷静に理解できるように考えることが良いらしいですね。
    本来人は欲深いのですが、それを受け入れ、考えることでまた違った新しい考えも発見できるかもしれないし。

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    てか、もう絶望的に読めてないね。
    小学生か?誰が「当てにして生きてない」って書いてるんだよ。バカか?
    長い文章は理解できないんなら読まないことだよ。それか30回通読してから、コメントしてね。まるで誰かさんの文章みたいだよ;)

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    君は、ホッチキスっていう人当てにして生きてるんジャマイカ?でかい事言ってんじゃねえょ(笑)

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    >シローさんへ
    そうですねえ、ま、どれも経験はしたのですが。
    ただ、経験したのだけれど、のめりこめない、というのもまたボクの欠点で、結局はその献金システムを経験することがなかったというのが、ま、中途半端なところなのかなあ、なんて考えています。というか、慎重に見定められる位置にいては何も見えないのかなあ、なんて思ったりしています。虎穴にいらずんば、って感じで。
    >MUKUさんへ
    ああ、そうかもしれないですね。
    意思ではなくて、なにか大きなもの。まだ意思を持っているようでは、何も見えないのかもしれないですね。
    人との関わりあいって、やっぱり意思なのかなあ、なんて考えたり。その番組のリアリティーの無さは、きっと「友達100人作るんだ」みたいなかなり強烈な意思が働いている部分なのかなあ、なんて思ったりもしています。見ていないのですが。
    なかなか「オレオレ」と意思を持って生きる、そして人の中に入るってのは難しいし。周りから集まるなんて魅力はないし。
    難しいですね。

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    周りを見ると流れに身をまかせて、あまり思考せずに生きている人も多いと思います
    自分も気を抜いて、このカチカチになった頭が柔らかくなったら、生物的な本能に導かれて、色々な人とつながれるのかなって考えた
    意思なんかじゃなくて、もっと大きなものに動かされるのが本当じゃないかと
    でもそういうことはずっと無くて
    先週TV東京で「命のバトン」っていうドラマやってました
    色々事情を抱えた男が、定年で故郷の多摩川に引っ越して来て、地元の色々な人が関わってくるの
    全然リアリティー無い様に思えて途中で見るのやめちゃいました
    もう普通の感覚からずれているのだろうか

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    >>誰かをあてにしてはダメ・・・。
     おっしゃるとおりだと思います。他人に依存すると中毒になると思うのです。
    >>臨済宗のお寺
     私的には禅寺はお奨めです。神社仏閣は心が落ち着くのです。仏教は善悪の彼岸に立っているので、良い意味で気楽になれるのでは・・・と思います。損得を計算しない般若の智慧ですね。
    >>キリスト教会
     牧師先生の御子息が同じクラスにいたので、誘われてプロテスタントの教会に通ったことがあります。聖書は読みましたし、賛美歌や聖歌にも感動しました。しかし、私はキリスト教の教えには、馴染めませんでした。視点が心の内へ内へ向かうのですね。で、心の動きに過敏になってしまうわけです。疲れたので教会を去りました。
    宗教に立ち入る時は、慎重に見定めた方が良いと思います。
    まず、ニコニコと羊の笑顔で近づきますからね。信徒集めのノルマがあると思いますよ。それは、献金システムへとリンクするわけです。

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